点から線、線から面に向って(二) めだか論語普及会 顧問 小谷 忠延
「この土地は、豊潤しき小国なり」(一)
(出雲風土記・大国主命の言葉より)

 昨年秋、村下好伴会長來松の折、講演会の翌日、大阪にお帰りいただく前に、仁多郡奥出雲町にお連れしたことがありました。私がこの奥出雲町の幼児・児童を始め、三沢・阿井・佐白の各地区の住民の方々を対象に論語素読教室を開いていることもありましたが、それ以上に、この町が安岡正篤先生と深いかかわりのある地であったことをお伝えしたかったからでありました。安岡先生が島根にお越しの節は、必ずといって良い程、この町の上阿井に在る、桜井家に数日滞在されることが常であったと言われています。そして、その都度多くの墨書を創出されておられたと言われています。桜井家は松江藩より、鉄師頭取として任ぜられた鉄師の一つで、現在、その屋敷はもとより、それを取り囲む広大な敷地一帯は歴史的重要文化財として認定されている地域であり、あたかも江戸時代が生き残っている風情の地域であります。現在、九十才半ばの御当主、桜井三郎左衛門氏に
会っていただきたく、村下先生をお連れしたかったわけです。先代の父、桜井三郎左衛門と安岡先生は永年昵懇の間柄であり、親しく家族づき合いをされていたことを少年の頃の憧憬として大切にされて来たわけであります。
 桜井家は、戦国武将、塙団右衛門を祖先にもつ広島可部地方の豪族でありましたが、江戸初期に、この地方の良質の砂鉄を求めて、上阿井地区に入植し、終始一貫この地でタタラ鉄を営んで来た一族でありました。上質の日本刀はもとより、国友銃砲には欠くことの出来ない原料として、「菊一文」のブランド品としての最高級のハガネを産出されてこられたのです。当時は下請の中小のタタラ業者が多くあったと聞きますが、倒産した安部家の息子安部十二造氏もその一人で、桜井家の支援を受け、苦学の末、東京帝国大学を卒業され、東京で活躍された人でありますが、安岡先生の弟子として薫陶を受けた人でもありました。安部十二造氏は、わが国に於ける国際電電公社(現KDDI)の創設者として通信業界に参加されたお方で、出雲地方が生んだ国士の一人でもあります。その安部十二造氏が出身地の奥出雲に帰郷され、安岡先生、桜井家の支援の下、「素行会」という論語塾を設立されたわけであります。「素行会」は現在本部は松江に移されておますが、残念なことに、今年その八十五年の歴史を休止されましたが、その発祥の地は、この奥出雲であり、桜井家の支援の賜であったと思うのであります。
(次月号に続く)

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