孔子と諸先生方に導かれて(第三回) 論語との出会い 本会理事 宮武清寛
 平成十四年八月「五十にして天命を知る」と題して、論語を楽しむ会の前座で発表をさせていただきました。
 「五十にして天命を知る。天の命ずる、これを性と謂う。性に率うこれを道という」
 五十歳を向かえ身の上に起こった事を天命と受け入れ、その後の人生を努めよう。そんな気持ちを語った事が昨日のように思い出されます。
 私は、昭和二十七年香川県の中ほどに位置する綾歌町岡田で農家の長男として生をうけました。そして伯父の影響で中学の時建築家を志しましたが中学高校では、体育会系の人間としての毎日でした。
 高校に入り、ふらっと海に行ったらそこではヨット部が練習をしていました。海の大好きな私は即入部、高校の三年間はヨット三昧でした、一年生の時、三年生が国体S級で優勝、二年生の時には国体F級で三位、三年間は全国優勝を目指して激しい練習の毎日でした。私達の時にも国体F級で三位になりました。でも私はS級で出場二十二位と出場四十五校中、調度真ん中、不完全燃焼で終わってしまいました。
 ヨットで夢を追っかけるか、もう一つの夢を実現するのか。私が高松工芸高校に進学したのも建築家としての夢を実現するためでした。推薦を受けて大学でヨットを続けるか、建築会社に勤めるか、迷った末に私は建築士の道を選びました。
 建設会社に勤め配属も希望通り設計部に勤務、入社以来十二年間沢山の建物を設計しました。そして開発部門に異動、マンション分譲・宅地開発・ゴルフ場開発に携わりました、建設業も不動産バブルに踊らされていた時代です。
 会社にはヨット部ができました。私にも少し時間と経済的な余裕ができていましたから自分のチームの活動と両立してしまいました。会社の船はX―九九バリバリのレース挺です。年甲斐もなく諦めかけた夢を再び追いかけ始めました。関西の大きな大会はほとんど「遠矢」で出場しました。そして三年後自分の船J―二四「凱風」での全国大会出場も果たしましたが、これまた六十二艇中二十五位今回も中途半端な結果です。その翌々年阪神淡路大震災で船も桟橋も壊れ全日本で十位以内に入り世界に挑戦という大それた夢からも醒めてしまいました。

 平成二十一年一月三十一日十五時、私は真っ暗になった舞台の上で客席に向かって深々と頭を下げていました。場所は大阪難波のワッハホール。エンタツ・アチャコ笑話物語「煙突とあちょん」の最後の台詞を言い終わり、照明が落された舞台の上でです。
 実は私、その頃舞台役者をやっていたのです。それは、不思議な出会いから始まりました。
 しかし、役者が私の天分と感じたことはありません。役者として感動を与えることが私の使命だと考えたこともありません。神はこの芝居との出会い、アチャコとの出会いを何の為に用意したのでしょうか。
 そろそろ答えを出さなければいけない時がきていたようです。本当の私の天分を手にするために。

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