第十一回 「たて糸とよこ糸」 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 我が家の近くに北野天満宮があり、毎月二十五日には「天神さん」といわれる市が立ちます。その一角に骨董屋さんがたくさん出店されています。最近その中に「オヤッ?」と思うものがあります。それは、たくさんの売り物の中に個人の古いアルバムが売られているのです。少しめくってみると家族写真などが丁寧に貼られています。このような個人のアルバムを誰が買うのかなと思いつつ、同時に誰がこのような貴重な家族の記録を手放すのだろうか?と悲しい気分になります。
 私たちは、家と家族によって育てられてきました。家にも長い歴史があり家族にも親、祖父母、曾祖父母とつながっていきます。この経(たて)につながる糸があればこそ、今の私たちがあるのです。織物の場合、経糸(たていと)と緯糸(ぬきいと=よこ糸)と書き、経糸に緯糸がからみあうことで綾なす織り模様ができあがります。当然ながら経糸が切れてしまうとその織物はできません。孟子の母が織りかけの機(はた)の経糸をたち切って息子の挫折を戒めた「孟母断機の教え」はよく御存じのことでしょう。故に「経」とは「過去から切れずにずっと続いている大切なもの」という意味があり「四書五経」とか「経典」など大切な教えの意味として使われてきました。
 私たちの生活も経糸は過去からつながるたての歴史、緯糸は家族・親戚・知人などの横のつながりです。現代は愛とか絆という言葉はよく聞かれますが、孝行とか祖先を敬うとか、家を守るとかの言葉はあまり聞かれないように思います。アルバムを売ってしまうような家は、その経糸が切れてしまったということで、その人たちは根無し草になってあてもなく漂っていることでしょう。
 日本人は調和(バランス)を保つのがどうも不得意なようで、かつてはたての関係が重視され上の命令は絶対、あるいは国や会社や家を守るために個人が犠牲になることがありました。翻って現在は何が何でも個人尊重、命が大事、結局自分だけが大事という社会になってしまいました。日本人は極端から極端へと走ってしまう、つくづく「中庸」を保つことが下手な民族だと感ぜざるを得ません。
 古典を学ぶ意義とは何でしょう?「活学」という言葉の通り現代の生活に活かさなければなりません。私は、学べば学ぶほど「中庸」の大切さを感じざるを得ません。
 美しい織物を「錦」と呼びます。そして十一月の京都は「錦秋」と呼ばれます。赤・黄・緑などの美しい紅葉の景色は、まさに豪華な西陣織の模様そのものです。どうか紅葉を見られたならば、西陣織を思い出してください。西陣織を思い出したら、たて糸とよこ糸の調和を思い出し、人生もたて糸とよこ糸どちらも大事にして心穏やかに暮らしていただきたいと祈念いたします。

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