第十回 「少林寺拳法」 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 私が生涯長きにわたって修行しておりますことに少林寺拳法があります。論語の勉強と相俟って私の人生の二本柱のひとつです。(「論語之友」二四八号二〇一二年九月に紹介)少林寺拳法との出会いは二十五歳の時でした。そのきっかけは当時の「衣笠三省塾」に通う先輩の学友で少林寺拳法の有段者がおられ、学問の話をしながらも武道の話に及ぶことが多々ありました。いつも話を聞くうちに武道に対するあこがれが芽生えていたのかもしれません。
 その頃、仕事中にちょっとしたトラブルがありました。社会人三年目、これから一生仕事をするうえで心身ともに「強く」ならなければ生きていけないと痛感し入門を決意しました。もともと運動オンチでスポーツ嫌い、こんな私が入門してどうなる事かと不安を抱えながらの毎日でした。しかし先輩の指導が良かったこと、少林寺拳法の持つ教えの部分に共鳴したことなどで、不思議なことに現在まで三十七年も続いています。十四年前には地元で道場を開き老若男女の門下生とともに汗を流しています。不器用で運動神経の悪い私が少林寺拳法の指導をしていること、また組織の中での役割も増え、スポーツ少年団の役職などを務めていることが、自分でも不思議に思えてなりません。スポーツが不得意で運動会が嫌いで野球もサッカーも興味なく、付き合いゴルフもしぶしぶ行っていたような自分が、武道に関わり、地元の体育振興会の役員になり、武道とスポーツの振興にあたっている毎日!自分でもなぜこうなったのか、よくわかりません。
 「こうなった」のか「こうした」のか、少しの言葉の違いですが、この違いは大きいと思います。よくよく考えてみれば、私は自分で「こうした」のでした。「少林寺拳法教範」という指導者用の分厚い本がありまして、その巻頭に次の言葉が小さく書かれています。
「ある人たちは、生涯を自分の思いどおりに生きている。 
他の人たちは、生涯がおのれを思いどおりにする にまかせている。 
どこに違いがあるのであろうか?」

     F・ベイルズ(米国人 世界的宗教学者)
 私たちはややもすれば自分の不幸や不都合を他人のせい、社会のせいにしていることが多いです。そうした方が楽ですからね。でも戦争や災害は別として、それ以外の出来事は大体自分に起因していることが多いのではないでしょうか。否、戦争や災害に遭っても他者や運命を非難しない人があります。立派なことだと思います。ゆえに自分自身をしっかりと確立することを少林寺拳法で教えられました。この教えは私の生涯の財産になりました。
 もう一つは子ども達との関わりです。子どもたちの抱える様々な問題も学校が悪い、親が悪いと言っても何も解決しません。私たちが「其の位に素して」正しく導く、これしかありません。自己が確立できたら次は他人のことを思いやれる心を養わねばなりません。
 「自己確立」と「自他共楽」少林寺拳法の教えは、心の鍛練と体の鍛錬、まさに「中庸の徳は至れるかな」の教えです。

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