第八回 「石田梅岩との出会い」(その三) 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 平成十六年(二〇〇四年)、私は二十八年間務めた会社を辞めました。五十歳のときでした。どうしても職責を果たせなかったからです。おりしも世間では「リストラ」という文字が毎日のように新聞やテレビで踊っていました。「明日は我が身か」と誰もが思いながら仕事をしていました。どうせ辞めざるを得ない状況なら「辞めさせられた」より「辞めてやった」方が人に言うときカッコいいかなと思って退職しました。予想通り、遺留の言葉もなくすんなり受け入れられて、天下御免の素浪人となりました。その時何も言わずわがままを受け入れてくれた家内には本当に感謝しております。しかし現実は厳しいもので、五十ではまだ年金暮らしもできず、さりとて新しい職もなかなか見つからず、という悶々とした数か月が過ぎました。「どうしよう!何か仕事をしなければ…。」とあせっている時にたどり着いた結論は「私塾を開こう」でした。
 論語には「天命」という言葉が出てきます。私の天命とは何か?と考えるとなかなか答えは出てきません。孔子先生は五十で天命を知り、自分も五十になって何も悟らず…。では、お前の一番やりたいことは何か?との問いには、好きな漢文・古典の世界で生きたい、でした。かつて学んだ衣笠三省塾での日々を思い出しながら、後半生をこれに掛けようと決意しました。
 この決意をあと押ししてくれたもう一つの力は石田梅岩先生です。梅岩先生も呉服屋の番頭さんから学問の世界へ転身されました。以前から私淑していて他人のような気がしない梅岩先生と自分の姿を重ねたのでした。(ちょっと厚かましいですがお許しください)
 そうして準備を重ね、開講の日が近付いてきました。名前は迷いなく「衣笠三省塾」です。かつて学生のときから通い続け、十年余りで自然消滅してしまったこの塾を再興したい、それが木俣秋水先生に対する恩返しと思い、亡き先生の奥様に許可をいただいて二十年の空白を経て再び看板を掲げることができました。これが天命かどうかはいまだわかりませんが、とにかく一歩を踏み出すことができました。
 平成十七年四月、いよいよ開講の日を迎えました。各方面に案内をしたので一人か二人は来てくれるだろう!と楽観していたのが大間違い。待てど暮らせど人影はなし。結局初日は誰も来ず、ひとりで読書という記念すべき第一日目でした。おりしも自宅の前に看板を掲げていたものですから、通りかかった近所の同級生が入ってきて「お前、何してんねん?」と一言。来てほしい人は来ず、一番来てほしくないやつが来る、世の中はうまくいかないものです。
 老舗の智恵は「温故知新」と「不易流行」です。古臭い店構えでも内容は新しいのです。変えてはいけないものと、変えなければならないものをしっかり分別しているということでしょうか。味は変わらなくても形や入れ物を変えるようなものです。そして細く長く「商いは牛のよだれ」のごとく、大きくならなくても切れずに続けることこそが大切なことなのでした。
 京都の先人は明治維新の後、琵琶湖から疎水を貫き一番に発電所を作り、その電気で一番に市電を走らせました。その進取の気風は、梅岩先生が初めて商人の道を説き、初めて町人に学問を奨励し、初めて女性にも門戸を開いた姿に通じています。その進取の気風を私たち京都人は現在に生かさなければなりません。
 古いだけが「京都」ではないのです

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