「石田梅岩との出会い」(その二) 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 前回は京都で根付いた石田梅岩の心学とそれを守って何百年も続いた老舗、またそれを忘れて高度成長の波に乗りやがて消えて行った企業のことをお話ししました。
 私が入社した昭和五十一年(一九七六)は高度成長が極まった時期、ここからきもの業界は右肩下がりになっていく時代でした。京都の繊維関係の資料を見ますと、このころが生産量・消費量ともにピークで、その後下降線をたどり倒産した企業の事情(一九九〇?二〇一〇ごろ)などを見ますと、「売り上げはピーク時の三割とか二割」に激減しており、現在はさらに一割近くまで落ち込んでいます。私の会社でも入社したときは創業二百五十年目で年商百二十億、社員三百名、無借金の優良企業でした。現在は年商・社員とも二割弱、借金だけは激増という状態です。これは梅岩先生の教えを知らず、まさに「時運の赴くところ」の結果に他なりません。昔から「問屋とできもの(腫物)は大きくなったらつぶれる!」という言葉があったのでした。
 しかし老舗企業には強みがあります。それは時代の波をくぐり抜けてきた経験と智恵があるからです。他府県の方から「京都は戦災にあわなくて良かったね。」といわれることがありますが、京都人は猛然と反論します。「応仁の乱で丸焼け、天明の大火事で丸焼け、幕末には禁門の変で丸焼けと何度も災難に逢うてます。先の大戦では空襲こそなかったものの〈奢侈禁止令〉で着物など売ることもできまへんどした」と。そういう時代を経験してきた人は強いです。ある時私が「売れない売れない」とぼやいていると、ある重役さんが「お前ら着物扱えるだけでもありがたいと思え。わしらは戦時中店員は兵隊や徴用にとられるし、着物も売ることがでけへんし、下駄やたわしを売り歩いていたんや。ホンマに情けなかったで!」と言われておおいに反省しました。
 老舗の智恵は「温故知新」と「不易流行」です。古臭い店構えでも内容は新しいのです。変えてはいけないものと、変えなければならないものをしっかり分別しているということでしょうか。味は変わらなくても形や入れ物を変えるようなものです。そして細く長く「商いは牛のよだれ」のごとく、大きくならなくても切れずに続けることこそが大切なことなのでした。
 京都の先人は明治維新の後、琵琶湖から疎水を貫き一番に発電所を作り、その電気で一番に市電を走らせました。その進取の気風は、梅岩先生が初めて商人の道を説き、初めて町人に学問を奨励し、初めて女性にも門戸を開いた姿に通じています。その進取の気風を私たち京都人は現在に生かさなければなりません。
 古いだけが「京都」ではないのです

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