「論語との出会い」 (四) 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 世の中には不思議な縁というものがあります。我が家には庭の一角に「楠公父子の石像」がありました。四條畷神社に建立されている石像と同じように親子が向かい合って座っている姿です。我が家の像は昭和十五年紀元二千六百年の記念に地元の小学校に当家先代が寄贈したものでした。ところが終戦になって、このような像は時代に合わないということになり、学校側から「せっかく寄贈してもらったけれどお返ししたい、引き取ってもらえないか」と打診があったそうです。仕方なく我が家へ帰ってこられました。その後ずっと家の庭に座っておられました。
 昭和二十三年母が嫁いできたとき、「庭に楠公さんが座ってはる!」と驚いたそうです。その理由は、母の実家が大阪府三島郡島本町というところで、その近くに「櫻井の駅」旧跡があるからでした。(この場所で楠公父子が訣別をし、正成公は湊川へ赴き戦死された。)母の話によると小学校のころ五月二十五日(楠木正成公のご命日)にはその旧跡へ全校生徒が参列して式典があり「青葉繁れる櫻井の…」の歌を歌って帰校したそうです。歴史は苦手な母でしたが、楠公さんのことだけはまるで身内の自慢をするように得意げによく話してくれました。そういう環境で育った母ですから、嫁ぎ先に「楠公さんが居てくれはった」ことは、実家から強い味方が付いてきてくれたような気分だったようです。たまにやって来た母の母(私の祖母)も楠公さんの前で手を合わせていた姿を思い出します。「不思議やなあ!」母はいつもそう言うのでした。
 そんな母の話を聞いて育った私は、衣笠三省塾にて「日本外史」の白眉と言われる「楠氏論讃」にさしかかったときは、一層の感激を以て読んだものでした。
 「外史氏曰く、余しばしば摂播の間を往来し、いわゆる櫻井の駅なるものを訪い、これを山崎路に得たり。一小村のみ。過ぐる者或いはその駅址たるを省みず。蓋し足利・織豊の数氏を経て世故変移し、道里駅程したがって即ち改まれるのみ…。」
 今でも何故かスラスラ出てくる名文中の名文です。当時、木俣秋水先生は「今の人は大楠公・小楠公と言っても何のことかわからない。饅頭の数と間違えた者もいる(大何個、小何個)。また湊川神社にある「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を「鳴いて呼ぶ忠臣楠子の暮れ」と読んだバカな議員がいた、などと世相人心の変わりようを大変嘆いておられました。
 現在楠公さんの像は、相続の関係で庭も分割し隣りの親戚の庭に座っておられます。大きな石の台座は処分されました。今の住人は世代も変わり楠公さんの意義も理由も知らず困っておられる様子です。地面に座っておられるお姿を見るたびに、何もできない自分に愧じかつ心痛みます。


昭和50年頃の姿(台座の上に鎮座) 現在の姿

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