「論語との出会い」 (三) 京都・衣笠三省塾塾主 長野 享司
 一九七六年(昭和五十一年)就職しました。就職先は千切屋株式会社という呉服の卸問屋です。当時オイルショックの後の不況の時で、私自身何をしたいという目標もありませんでした。私たちの世代(昭和二十八年生まれ)は当時シラケ世代とか、三無主義(無気力・無関心・無感動)などと言われ、職場には団塊の世代の先輩たちが多数おられ「あの人たちには、ちょっとついて行けないな!」という感じでした。たしかに何事にも熱中できない冷めた心がありました。家業の関係でなんとなく就職したというのが正直な気持ちでした。
 呉服屋生活はそれなりに面白いものでしたが、社会人になっても漢籍塾「衣笠三省塾」には通い続けました。塾生の一人で西村さんという七十代の女性がおられました。塾が終わるといつも一緒に話しながら帰ってきました。私は夜道ですのでボディガードのつもりでいたのですが、その十五分ほどの時間に二十代の男が七十代の婦人から色々な苦労話を聞かせてもらって本当に良い人生勉強になりました。何より七十代になってまだ学ぼうという若々しい気持ちを持たれている老婦人がおられることが驚きでした。その頃には「老いて学べば死して朽ちず」という言葉はまだ知りませんでしたが、この夫人との出会いが生きたお手本になり、私の生涯学習の種火となりました。
 塾で学んだことに「漢詩」があります。先生は「君たちは漢詩と言えば杜甫や李白しか知らないでしょう。日本人の漢詩には優れたものがあるのです。」と言われ、頼山陽、西郷南洲、乃木希典など多くの詩を教えていただきました。南朝の歴史と桜を詠んだ「芳野三絶(芳野を題材にした三つの著名な詩)」のときなどは特に力の入った講義でした。日本人がすばらしい漢詩を多く残していることをこの時初めて知りました。頼山陽「十有三春秋…」細川頼之「人生五十功無きを愧ず…」西郷南洲「児孫の為に美田を買はず」広瀬淡窓「君は川流を汲め吾は薪を拾はむ」当時教えてもらった日本漢詩は、今なお感激を伴なって次から次へと湧き出でてきます。「詩に興り…、」と論語にあるように、この感激を伝えたいがために、私の塾では漢詩を毎回一首鑑賞しています。
 さて二十代も後半にさしかかった頃、衣笠三省塾の木俣秋水先生が体調を崩され、休講が度々ありやがて休会となってしまいました。私自身も営業職に配属され地方出張などで忙しくなり、また結婚し子供ができ、知らず知らずのうちに漢籍の勉強から遠ざかった時期でもありました。昭和も終焉にさしかかった頃でした。

1977年、前列右端が西村さん、
後列左から2人目が筆者
2003年26年ぶりの再会、小学生たちは
お父さんになっていました。
木俣先生、西村さんは故人となられました。

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