「私の修身トライアル」 (十二) 梅田・論語に親しむ会会長 有隣論語塾塾長 岸本千枝子
 昨夏、山本編集長から当欄への寄稿を打診され容易に受諾した私。浅学を弁えぬ軽率。自信があって受諾した訳ではない。自分を追い込む…吾は隠す無きのみ…不勉強の恥をさらし、愚かさを開示して、こびりついている傲慢の澱を剥がしたいと希求したのだ。少し剥がれてスースーする。
 平成九年の大摂心から数えてちょうど十年経った平成十九年、今に至る道標の灯を掴んだ。
 月刊誌「致知」の縁で姫路木鶏クラブ創立二〇周年記念大会に参加し、書籍コーナーで伊與田先生の「『大学』を素読する」に出会ったのだ。お陰様。伊與田先生が致知出版社の社員対象に『大学』を講じておられる事を知っていたので、直々の素読CD付きは嬉しかった。この頃、毎日のように伊與田先生のお声による大学の素読に耳を傾け、親しんでいた。本の出会いもまた縁尋機妙である。
 
 この年、書店で何気なく手にした美輪明宏氏の一冊の著書。「買って読んでヨ」とその本が私を呼んでいる。書店で時々こういう現象を経験している私は早速購入、ひと晩で読み終えた。読後、すぐ知人に差し上げてしまったので、正確な書名を覚えていないのだが、心に響いた文章はすぐにメモを取って、それ以来座右にある。
 …この世の種々の辛苦を知る者は、次第に謙虚になる。如何に自分が、この世、この社会の諸々を知らぬ者であったかということに目覚めるから。 ゆえに、この世の辛苦をあまり感じたことのない者は、傲慢の澱がこびりつく。あらかたの苦労知らずは、この世のことも知らず、無知蒙昧。例外なく傲慢。傲慢な人は、自分の卑小さに気付かない。中途半端なインテリの偽者。実利一方主義の頑固な蛮族である。聡明なる御仁は素直で謙虚である。「この世の中には自分が知らないことは、まだまだ山ほどあります」「私には知識も経験もないのでわかりません」「私はいまだ未熟です」「私には出来ないことが一杯あります」こう言える人が聡明で謙虚な人である。……。
 私も、願わくは素直で謙虚な存在となり「聡明なる御仁」と呼ばれたい。覚悟すべき年齢である。
 【女、君子の儒と爲れ、小人の儒と爲る無かれ。】
 人間とは結局盲目だ。人生の分岐点において屡々迷う。「どっちに進んで何を学べばいいか」本人にはわからないもの。人は自分で思うほど賢くはない。だからこそ騙されて、或いはわからないままに、夢中で行ったことが意外にも自分の発見や成長につながることがある。そうして発見し成長したあとで初めて、自らの愚かさや盲目であったことに気づく。人生はその繰り返し。成長心と向上心を持つ人だけがそれを繰り返すことができる。自らの愚かさに気づき、胸に識すことには痛みが伴うが、しかし、その痛みを上回る成長の喜びというものがある。人間の魂はそのように形作られている。孔子は論語の中で生き続け、私達に人としての「魂」の磨き方を教えてくれている。
感謝。

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