「私の修身トライアル」 (十) 梅田・論語に親しむ会会長 有隣論語塾塾長 岸本千枝子
 私って凄い!と思いたいから一生懸命作務をやった。やっている間、本来の作務修養の狙いとは逆の方に立っていた。称賛されるだろうことを予想してやっている。自己満足の為にやっている。ところが【そこはもう結構です】【運んだ竹をもとあった場所に戻してください。】自己満足感・達成感の追求心を見透かされて止められた。ブレーキをかけられた。我慾に気づかされた。全く逆の価値観に立って見なさいと、真逆の側からの視点を与えられたのだ。
 
 実は、大摂心の初日から、心の中で何度も何度 も呟いていた。Kさんに騙された。Kさんに乗せられた。来るんじゃなかった。うまいこと言って乗せられたんや。こんなにしんどいと知っていたら来んかった。自分の愚かさ、お人よし加減に呆れるワ。二日間ずっと呟き続けていたのに帰心を抑えることができた理由は単純だ。勧誘したKさんが喋っていたこと。「大摂心は物凄く厳しい。S市のAさんの娘さんは二日で逃げかえったんや(笑い)あんたは大丈夫やろ」逃げ帰ったらあんな風に言われる…その思いだけで耐えて三日目を迎えた。笑われたくない。三日目になると、欲が出てきた。これだけきついのを辛抱してるんヤ!何としてでも頑張って、認めさせないと損ヤ!と心境が変わった。坐禅は損得の問題になった。
 
 多分Kさんの手のひらの上で転がされていたのだろう。「アンタ、二日で逃げ帰ったら笑ったるからな」と。愚かではある。しかし愚かさも悪くはない。結局、坐禅修行を通して一番学んだことはものがわかっていない自分に気付いたこと。つまり、無知の知を学んだのである。やってみて初めてわかっていない自分に気付いた。無知の自分を見たのだ。少うし自分を客観視できるようになった気がする。自分自身の姿を一瞬鏡に映し、見えていなかったものを見てしまった。そうして明白になったことがある。騙されたのではない。私は箔を付けたくて…自分に値打ちを付けたくて行ったのだ。「大摂心の修業したんよ。」中味はがらんどうでも箔がつく。Kさんや他の異業種の方々から、岸本さんは物凄く厳しい修業をやりとげた、と称賛されることを想像して行ったのだ。
 
 …実利的な自分に気づき、疼く自分を柔らかい絹の衣で包みこむように慰める。 「このままでは駄目だ。前進するということは新しいことにチャレンジすること。日常性からの脱却を目指し、異空間に身を委ねて柔軟性を養おう…そういう意識が働いていたのだ…。目上の方の勧めに従ったことで得難い機会を得、自分の言葉で語れる体験を積むことができた…のだ。」 伊與田先生の言葉が耳の奥で谺する。「わかる人にはわかるんですわ。わからん人にはわからんのですわ」形の無いものがみえるようになり、音無き音が聞こえるようになって、そうして初めて分かる世界。その扉の方角がおぼろに浮ぶ。

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