「私の修身トライアル」 (八) 梅田・論語に親しむ会会長 有隣論語塾塾長 岸本千枝子
子曰わく、法語の言は、能く従うこと
無からんや。之を改むるを貴しと爲す。
(「仮名論語」子罕第九 一二二頁)

 老師の教えは直截で思い当たることばかり。気分が沈む。これまで相手の気持を考えるより先に数々の老婆親切を身勝手に押しつけていた。暗ぁーい気持になってくる。闇も闇、真っ暗闇だ。
【自利をある程度完成させること。泳げることが必要だ。利他を行うのはそれからだ。今溺れてはいないのか】
…アァいつも藁をつかもうと喘いでいた…。【全神経を尖らしてそのものになっていく。一つひとつの行いに全身全霊をぶつけて行くことだ。】
…一期一会の絶対時間と同じことヤネ。【《無地》であっても《隻手》であっても三昧になることは教えられない。説明は出来ない】
…息をしていることを忘れるのが禅定だ、と。自分で辿り着かなければ…。誰も助けてはくれない。…ゴールの見えない道行きの途上にいる自分。
【考えろ、と言っているのではない。なりきれ、と言っているのだ。】
…分別を捨てろとも仰っていた。どうやったら捨てられるのか…捨て方がわからない。分別・わきまえが無ければ大人とは言えないし…自縄自縛。
【五感に惑わされるな】
…企業は消費者の五感をターゲットにして、戦略的に知覚概念のコントロールにしのぎを削っている。惑わせることも戦術に組み込まれている。現代のマーケティング理論はどうなるのか??
【目で音を聞き、耳でものを見る】
…あの頃、このような表現は語彙の保存庫に無かった。発想すらできなかった。大摂心以来、なぜかズーッと胸に刻み込まれている。
 毎日夕刻から十時まで夜坐があった。禅堂の外に座布団を敷いて坐禅する。外界の喧騒も納まり、月が美しい。一日で最も三昧の境地にひたれるはずの時間。ところがこの夜坐の時間は最も辛く、最も雑念にさいなまれた。
 池に注がれる水の音。絶え間なく流れている。隻手の工夫?要するに音がしてもしなくても、始めから片手に音なんてないのよ。池の水音だってそうでしょ。水と池の面とは離れているから、それでぶつかる時に音が出る。手もそう。片手にはそもそも音は無い。暑いなぁ。サウナに入っているような汗。もうあと少しの辛抱ヤ。ひざ頭が冷えてジンジン痛む。横臥してぐっすり眠りたい。
 床についた瞬間に爆睡し夢も見なかった。
(続く)

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