「私の修身トライアル」( 六) 梅田・論語に親しむ会会長 有隣論語塾塾長 岸本千枝子
 半頭太雅禅師の書
子曰わく、君子は能無きを病う。人の己を知らざるを病えず。
(「仮名論語」衛靈公第十五 二三五頁)


 作務で動けることが嬉しい。坐禅で凝った疲れもとれる。つい話しかけたくなる。大学の教授(あとで知った)が何人か参加しておられたが、《声をかけるなヨ》オーラが出ていて、話しかけることが出来ない。一心不乱、汗だくになりながら一所懸命に身体を動かしておられる。私は動ける自由に心が解放され、ウキウキとしてしまう。ある日の作務のこと。竹林の手入れをしたのか、竹藪の竹が仰山伐り出され、乱雑に積み上げてあった。【岸本さんはここの竹を向こうに運んで積み上げてください】十五㍍程離れた場所を指示された。張り切ってテキパキ作業をする。運び終えた。点検に来た直日さんが言う。【今運んだ竹を元の位置に戻して下さい】「えーーっ」…向こうの藪がスッキリしたのに何で?…「修身・修行」黙って従う。
 【ここからあの辺りまで、草むしりをして下さい】草むしりは好きな作業だ。しゃがみ込んで藪蚊を払いながら雑草を根っこから抜き取り、抜いた草を積み上げて行く。まるで嘗めたように雑草がなくなる。あともう少しだ!無我夢中で草むしりを楽しむ自分がいる。突然直日さんが現れた。【もうそこはしなくて結構です。向こうの畑の雑草抜きをお願いします】思わず言葉を発してしまった。「もう少しでここが全部キレイになるんです!」無言で見返される。畑に移動して草むしりをしながら、「何でやの?何でなん?」自問しても自答には至らない。「修身・修行」「〃」と呪文を唱える。
 作務を通して、人間が達成感を得たいと願う動物であることを痛感した。ン?達成感?そうだろうか?我が出ているのではないか?「私に」竹を運ばせればこんなにちゃんと手早く仕事が出来るのヨ。「私に」任せればきっちり几帳面に作業が進む…。しかも「私は」汚れ仕事も厭わずに嫌顔しないで進んで取組む。エライでしょ。「私が」あそこの雑草を抜いてあんなにキレイにした。「私は」人に負けない仕事が出来る…「私は」……。
 これは単に自己満足を得たいという自我欲求ではないか。いや、エイブラハム・マズローの欲求階層論にある《褒められたい・認められたい》心理、承認欲求ではないか?
(続く)

引き寄せて結べば柴の庵なり
   とけばそのまま 野原なりけり
引き寄せて結べば柴の庵なり
   とかでそのまま 野原なりけり

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