2013年12月 「論語と道元禅師」(二十一) 本会副会長 目黒 泰禪
 「仏法には、修證これ一等なり」
 この十二月号が私の「論語漫遊」の最終稿となる。長らく抹香臭い論語漫遊にお付き合い戴き、ここに御礼申し上げたい。始めは一年間のつもりであったが、一年九か月間に亘ってしまった。けれどもこれが契機となり、『正法眼蔵』や『正法眼蔵隋聞記』を開いてみたいと思って頂けたら、この上ない幸せである。
 この『論語と道元禅師』を書くにあたって、『論語』と『正法眼蔵』等の章句から、孔子と道元の、在家と出家の違いを越えて、普遍的に言わんとしたことを書いてきた。『論語』の「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」や「見賢思斉」の引用は勿論のこと、「在家は孝経等の説を守りて」や「俗は天意に合せんと思ひ」と言うように、在家での孔子の教えを肯定してきた道元である。
 しかし『正法眼蔵』を読まれた方は既にご存じと思うが、最晩年の『正法眼蔵』の巻「四禅比丘」では、道元は「仏法と孔子老子の教えが等しいという見解を棄てないならば、悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちる。…孔老は三世(過去・現在・未来)の法を知らず、因果の道理を知らない」と言う。この巻の存在は、私にとって『論語』を学び始めた頃からの重い課題であった。地獄に堕ちる、とまで言われては気になるのは当たり前である。ただ何度も『正法眼蔵』を繰り返し読んでいるうちに、この「四禅比丘」の巻に縛られるのではなく、全巻を看て道元の言わんとしたことを理解しなければいけない、と思うようになった。
 道元が留学した宋代は、「道教・儒教・釈教(仏教)の極致は一揆(ひとつみち)」「三教は鼎の三脚のごとし」と唱えられた時代である。道元は、この三教一致説を批判(『正法眼蔵』「諸法実相」「仏教」)し、特に、仏教の要は見性に在ると捉えた三教一致を強く否定(同「四禅比丘」)している。「仏法には、修證これ一等なり」(『 道話』)、修行がそのまま証悟(さとり)であり、証悟はまた修行以外にない、と言うのが道元であり、仏法は見性(自らの本性を見る)に止まるものでなく、現成(自ずから現れる)するものである、というのが道元の立場である。従って「仏道の根本さえも知らず、禅問答の二つ三つを暗記して、これが仏法であると煙に巻き、教外別伝などと言って経典の教えをさしおき、修行もしない。こんな禅僧は、孔子・老子の宗旨にも劣る輩である」(『正法眼蔵』「見仏」)と厳しく批難するのである。あくまで道元の批判の力点は、当時の禅僧に対してであり、仏法の要を見性とした三教一致に対してである。問学に止まることなく、見性に止まることなく、求道弘法でありたい。
 『正法眼蔵』を厳しくも丁寧に私と家内にご教示下さった故大塚宗元先生と、『論語』を親子三代に亘って温かくご指導賜っている村下好伴先生に感謝し、伊與田覺学監が貫かれておられる仁恕の道を辿って行きたい。末筆となったが、多くの励ましとご指摘を頂いた畏兄・道友に感謝しつつこの稿を閉じたい。。

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