2013年11月 「論語と道元禅師」(二十) 本会副会長 目黒 泰禪
「いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ」
 孔子の教えに適い、自然にそれも意識せずに実践できるようになるには、意識して精進するしかない。その教えを子や孫に伝えようと思えば、当に「其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」(『大学』)である。凡夫の私にはなかなか難しい。もっとも孔子が「顔回はその心が三月も仁に違うことはないが、他の弟子は一日かせいぜい一月も続く程度だ」(雍也篇)と評しているので、多少救われる思いはする。  
 孔子の弟子三千人の中には、法学部の卒業証書を得たい、就職活動に優利になりたい、という安易な考えで門を叩いた者もいたであろう。孔子は「道端でよいことを聴いて、早速その聞きかじりを途中で話すのは、徳を棄てるようなものだ」(陽貨篇)と誡める。曾子も「まだ習得していないことを人に教えるようなことはなかったか」(学而篇)と日々三省する。
 では道元禅師はどう諭されたであろうか。「東で一句の法を聞いたならば、西に来て一人のために説くべきである」「まだ明らかに理解していないから、人のために説くことはできないと思ってはならない。全て明らかにするまで待っていては、永遠に説くことはできない」(『正法眼蔵』自証三昧)と言い、「本当に仏道を求める人が一人でもいれば、自分の知り得た仏の法を説かないことがあってはならない。たとい自分を殺そうとした人であっても、真実の道を聞こうと真心から尋ねたならば、怨みを忘れてその人のために道を説くべきである」(『正法眼蔵随聞記』第三)とまで主張する。
 確かに、己の身についていないことを子や孫に説いても説得力に欠ける。しかし完全でなくても説かなければ、いつまでも説くことが叶わないのも確かである。未だ実践できていないことを伝える時には、羞恥心を忘れずに説くしかない。寺子屋や家では、この章句は未だ身についていない、この言葉は自然体にできていない、と共に学ぶことが出来る。しかし幼児とはそうはいかない。矛盾や曖昧さは大人になって分かるもの。孫と「スカイプ論語」と名づけて、無料のインターネットテレビ電話で論語の素読をしているが、伝えきれたかどうかの不安と羞恥が伴う。これは幼稚園でも同じである。
 せっかく孔子の教えや釈尊の道を聞く縁を戴いているのであるから、自分だけに止めていたのでは勿体ない。孔子でさえ政敵陽貨から「自分の胸の中に宝を抱きながら国の混乱を傍観しているのは仁者と言えようか」(陽貨篇)と問いつめられ、任官を承諾せざるを得なかった。口耳の学や問学のみに陥り易い弟子を誡める一方で、「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず(人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではない)」(衛霊公篇)と、孔子は弟子に「弘道」を望んでいる。黄泉におもむく時は何をも、学んだ道さえ、持って行くことはできない。道は伝えなければならない、弘めなければならない。

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