2013年10月 「論語と道元禅師」(十九) 本会副会長 目黒 泰禪
「不 酒戒」
 手のふるえる論語読み、でっぷりとした坊さん。何れも本来あるべき姿ではない。しかしよく目にする姿である。
 『論語』郷党篇の孔子の嗜好を述べた「唯酒は量無く乱に及ばず」が、酒好きをさらに勢いづけた。酒豪を自認する論語読みは実に多く、私もその一人であった。「どんなに飲んでも乱れない」と呑兵衛の言い種にしていた自分を猛省している。この章句の前に、朝廷や家庭での事え方、喪に臨む心構えの次に「酒の困を為さず」(子罕篇)と、孔子が前三つと酒を並列に挙げたのには深い意味があると、この歳になって漸く気がついた。単に「酒を飲んでも乱れることはない」だけではないと。詩経から多くを学び、こよなく愛した孔子のことである。『詩経』にそのヒントがあると、私の寺子屋講師堤憲昭道友が示唆してくれた。
 『詩経・小雅』に「人の斉聖なる 酒を飲み温克す、彼の昏ふして知らざる 一に酔ふて日に富む、各爾の儀を敬め 天命又せず」(小宛第二章)とある。聡明粛敬(つつしみぶかい)なる人は、酒を飲んでも乱れず、よく温柔の気を以って己に克つ。彼の昏昧無知なる者は、酒を節することも知らず、専ら酒に酔ってますます酔興に耽るばかり。人はその威儀を慎み、天を敬い、天の命ずるところを生きねばならない。天命は再び下らない。「温克」であり「克己」であった。素面でも己に克つのは難しい。酒を呑んではなおさらである。
 會津藩校日新館を私財で復元された高木厚保顧問に、昨年お会いした時のこと。六十を越えると記憶力が衰えるとの話題から、酒を断つと記憶の減退を止められないまでも、進行を遅らせることができると言われた。六十歳で断酒された顧問の「酒を飲むとその時点で一日は終る。晩酌をしないと夜でも読書や臨書ができ、一日を長くすることができる」に納得である。司馬遼太郎であったか、晩酌する新聞記者はよいものを書けない、と読んだのを思い出した。禁酒していた私は、顧問の言でさらに意を強くした。
 仏教の在家五戒は「不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒」である。出家の十重禁戒ではさに一歩進めて「不 酒戒」となる。酒を売っていけないという戒めである。修道院のワインのようにお寺で酒を売っている訳ではないので、出家は自分が飲まないだけではなく人に酒を勧めてはならないとの戒めである。日本は酒に御御酒と御を二つも付けて言う国柄である。般若湯などと言って酒を飲む坊さんも少なくない。近頃は癒し系と評判の「坊主バー」なるものまであるという。言語道断。不 酒戒だけでなく不妄語戒にもあたる波羅夷罪(出家が犯す罪の最も重いもの)である。
 論語を学ぶ人には「飲酒温克」して頂き、せめて坊さんには「不 酒」「能持」(『正法眼蔵』受戒)とあって戴きたい。能く持つ。能く持つ。能く持つ。

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