2013年9月 「論語と道元禅師」(十八) 本会副会長 目黒 泰禪
「一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからず」
 今年三月のこと、初めてLCCピーチ航空に搭乗した。関空第二ターミナルのゲートエリア内に本屋があり、飛行時間を考慮して文庫本ばかりを販売している。実に考えた戦略と感心した。が、やがて心淋しいような情けないような複雑な心境になった。正面に推理小説、時代小説、ヤングコミック等がカテゴリー別に並べられ、L字型の右側面に、雑学文庫コーナーがあった。多くが『○○がわかる本』『○○の名言』『やさしい○○』という本である。名所旧跡、世界遺産や文化、歴史に並んで、『論語』、神道、仏教も禅も雑学に分類されていた。抜粋や抄本で、それも意訳、超訳、なかには柔訳というものまである。これが現在の特に若者の求める風潮なのか。宗教や哲学が雑学の類とされては、日本の将来は暗い。
 四月十二日、全国の書店で列が出来た。村上春樹の『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』は、初日に五十万部、七日目で八刷百万部を重ねた。彼がノーベル文学賞に一番近い作家といわれ、多くの国で翻訳される理由は、エキゾチックさを感じさせず、若者には若者が共感するような、我々の世代には我々が懐かしく感じるようなお膳立てが用意されているところかも知れない。もっとも私は村上春樹よりカズオ・イシグロを評価しているので、この批評が的を射ているかどうか判らない。しかし一冊の本が一週間で百万部も売れるのだから、日本の将来は明るいか。
 雑学の本論に戻る。安岡正篤先生が『文中子』を引用して、「〈広求せず。故に得。雑学せず。故に明らかなり〉広求も、雑学も結局は同じ種類の言葉で、広く求めると散漫になる。その一例が雑学で、雑学すると頭がこんがらかって雑駁になる」(安岡正篤『活学』)と戒めている。『論語』にも「子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべき者有り。遠きを致さんには泥まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり」(子張篇)とある。小さな技芸の道でも(異端の学でも)見るべきものはある、しかし遠大な志を遂げるには、小さな所にとらわれて動きがとれなくなるのを恐れる、だから君子はそれをしないのだと。「文学には子游・子夏」(先進篇)と言われた子夏の言葉だけに実に重く、説得力がある。道元禅師もまた「世間の人でも、多くの事を同時に学んで、そのいずれもしっかりと出来ないよりは、ただ一つの事を充分に究めて、人前に出ても通用するほどに学ぶべきである。…一事をもっぱらに学ぶことさえ、生まれつき愚かな者が一生の中に究めることは難しい、(仏道を)学ぼうとするものは必ず一事を専らにしなければならない」(『正法眼蔵隋聞記』第二)と誡め、「一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからず(ただ一つの事をもっぱらに行うことさえ、生まれつき力の劣った者には出来はしない)」と言う。雑学する時間ももったいない歳になった。
道元の言葉を噛み締めたい。

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