2013年7月 「論語と道元禅師」(十六) 本会副会長 目黒 泰禪
「身心脱落」
 道元禅師の会話力の続きである。昭和四十四年に『仏教の思想』の第十一巻『古仏のまねび〈道元〉』が刊行された。この中で仏教学者高崎直道は、如浄禅師の発した「身心脱落」が、「〈心塵脱落〉という単純な表現であったのではないか」「外国語の聞き違いがぜったいなかったとは言いきれない」「ただ、この〈身心脱落〉という表現が〈心塵脱落〉に比して、道元の哲学の深さを倍加したことは間違いない」との問題提起をした。共著の哲学者梅原猛も、「如浄のことばは、やはり〈心塵脱落〉であったような気がする。…しかし、道元は、それを〈身心脱落〉と聞いた。そして〈身心脱落〉と聞きちがえることによって彼は、さとりの眼を開いた。そして彼の以後の思索は、すべてこの〈身心脱落〉という思想を、中心思想とするのである。もしこれが誤解であるならば、まことに偉大な、独創的誤解が起こったということである」と応じた。
 私がこの本を買ったのは十年後の昭和五十四年である。この前後に二度頭を剃っている。背広に丸坊主、名が泰禪では、何かにつけて仏教や禅宗そして道元を聞かれる。知らないではすまされない。道元に関する多くの書籍の中で、何故この本を選んだか。前年に中西進の文庫本『万葉集』が出て、万葉集から梅原猛へつながり、片や仏教からも梅原猛へとつながり、この本でなければならなかった。高崎直道の仮説を知り、全十二巻の一冊とは言え、何故早く読まなかったのかと大変悔やんだ。
この本が平成九年に文庫版になった時は即買った。また買った理由がある。神戸商工会議所などで『正法眼蔵』を講義していた在野の大塚宗元先生に、平成七年から家内と一緒に学んでいた。この時ちょうど身心学道の巻であった。「シンシン」でも「シンジン」でも一般的には「心身」であるが、仏教では「身心」である。何故かと気になりながら、「シンジンダツラク」も考えていた。本屋で目を通すと、高崎直道の文庫版補註が新たに加わっていた。そこには、漢文学者飯田利行から中国語の発音上「身心」shēn xīn と「心塵」xīn chénの混同はありえないと反論され、「中国語の発音も稽えず、不用意な推測をしたことについては、率直に詫びなければならない」と述べた上で、「道元にとっては、たといそれが如浄の語であったとしても〈心塵脱落〉はありえず、〈身心脱落〉でなければならなかったと解釈し、理解すべきであろう。聞き違えではなく、道元が思想上敢えて行った解釈と考えることで、梅原氏流の〈偉大なる誤解〉を承認しておくことにしよう」と結んでいた。補註に全く納得した。
 中国に住んで一年経つ娘も、 音と声調(平仄)が違うので聞き違える事はないと言う。試しに発音してもらったが確かに違う。会話力のある道元は「心塵脱落」と聞き、敢えて「身心脱落」と昇華させた。改めて高崎直道の慧眼に深い敬意の念を覚える。

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