2013年6月 「論語と道元禅師」(十五) 本会副会長 目黒 泰禪
「見賢の雲水ありとも、
   思斉の龍象なからん」

 
 「セッサタクマ」と、園児の元気な声が和室いっぱいに広がる。開成幼稚園と塚本幼稚園での論語の授業風景である。また私の寺子屋でも小学生が直ぐに覚えて、「セッサタクマ、セッサタクマ」と繰り返しながら帰って行く。微笑ましい。この「切磋琢磨」という四字熟語は、園児にとって書くには難しいが、口にするには語調が歯切れよく、勢いがあって覚えやすいのであろう。「切磋琢磨」は『詩経』(衛風・淇奥)の章句から生まれた四字熟語で、この章句は『論語』学而篇に弟子子貢が引用し、よく知られている。人の徳を修め学を成すには、精練の上に精練を積まねばならないとの喩である。私がこの言葉を知ったのは、一休さんのような衣姿でお勤めをしての帰り道、父から教わったもので、小学三年生の時である。
 道元禅師は、『論語』からの四字熟語も使って表現する。『正法眼蔵』の行持の巻で、「誓願の一志不退なれば、わづかに三歳をふるに、 道現成するなり。たれか見賢思斉をゆるくせむ、年老耄及をうらむることなかれ」と述べる。願い誓う志が不退転ならば、わずか三年間であっても仏道修行は成就できる、だれが賢者を見てそれに斉しくなろうという思いを固くしないでおられようか、たとい老いさらばえた八十歳九十歳であっても(求道するには遅すぎると)残念に思ってはならない、と言うのである。また供養諸仏の巻でも、「見賢思斉の猛利精進すべし。いたずらに光陰をわたることなかれ」と諭す。見賢思斉で猛烈に努力精進しなければならない、いたずらに時間を無駄に過ごしてはならない、という行で使っている。
 この「見賢思斉(賢を見ては斉しからんと思い)」は里仁篇の原文をそのまま引用しているもので、四字熟語としては道元固有の使い方ではないだろうか。更に道元は、『正法眼蔵』の栢樹子の巻で、なんと「見賢」と「思斉」と別けて、「見賢の雲水ありとも、思斉の龍象なからん」と表現する。賢者を見る(百人の)雲水がいても、賢者に斉しくなろうと思う立派な修行僧は(一人も)いない、容易に悟りを求めて来るが、得られないとなると直ぐに諦めて去ってしまうと、道元は求道において手厳しい。生半可は許さない。年老耄及となっても「見賢思斉」で「切磋琢磨」したいものである。

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