2013年5月 「論語と道元禅師」(十四) 本会副会長 目黒 泰禪
「煩はしく典座に充てて只管に作務す」
 
今から七九〇年前(西暦一二二三年)の五月のことである。この四月に道元禅師は南宋の慶元府(現在の寧波(ねいは、ニンポウ))に着いたが、上陸できずに舶裏に留まっていた。この停泊中の船へ日本産の椎茸をわざわざ買いに来た阿育王山の典座和尚(典座とは衆僧の食事を作り調えることを掌る役、つまり寺の台所をあずかる職)から、道元は厳しくたしなめられる。道元の著した『典座教訓』から、その触りのみ引用する。
 (前略)…私は更に典座に向かって、「貴方ほどのお歳で、何故坐禅辦道(仏道の修行に励むこと)し、また古人の公案を看ることもなさらず、そんな忙しそうに典座なんかになって、ひたすら働いてばかりおられるのでしょう。それで何か好いことがあるのでしょうか」と問うと、典座は大笑いして「外国からやってこられたお方よ、貴方はまだよく 道の何たるかを御存じないようだ。文字の何たるかもお分かりでないようだ」と言う。私はこの言葉を聞くや、はっと気がつき恥ずかしくなった。…(後略)
 さて前置きが長くなったが、道元は入宋二ヶ月足らずでこのように生き生きとした会話が出来て、漢文漢詩の素養だけでなく、会話力も相当確かであった。道元自らも「自分は幼少の時に一般の典籍を好んで学び、宋に渡って帰国し法を伝える今でも仏典と併せて一般の典籍も読み、宋の言葉が使える程になり」(『正法眼蔵隨聞記』第三)と言っている。では誰から南宋の発音を教わったのであろうか。ここで一つの仮説を試みたい。
 道元は十八歳の時(一二一七年)に建仁寺を訪ねて、明全和尚に師事し、二十四歳で一緒に入宋(一二二三年)するまで修学している。この建仁寺に、宋に十二年間滞在した俊 律師(一一六六〜一二二七、泉涌寺の開山)が仮寓していた。一二〇〇年に南宋に到着し、一二一一年帰国した天台・真言・律・禅を修めた僧である。道元の著書に俊仍の名が出てこないが、源智律師の講義録である『教誡儀抄』には「法師(俊 )、常々合掌は仏法房(道元)の如くなる可しと仰せられたり」との記述がある。道元が弟子のかたちをとったかどうかは別にして、俊仍を幾度となく訪れた証左となる。また俊仍の俗世は藤原氏とも言われていることから、道元の母方藤原(松殿)家と何らかの縁が有ったとも考えられる。この俊 に中国留学の情報や中国語、特に南宋の発音を教わったのではないだろうか。
 ところで、薩摩藩記録奉行の伊地知季安が書いた『漢学起源』(巻一)に、「俊仍は帰国の際、多くの儒書(二五六巻)を購入して持ち帰った(律、天台、華厳他の仏典と儒書の計二一〇三巻にも上る書籍)。この年(一二一一年)は、ちょうど劉爚が初めて朱子(一一三〇〜一二〇〇)の『四書集注』を刊行した年であり、これらを考えると四書(新注)が日本に最初に入ったのは、まさに俊仍のもたらした儒書が最初」とある。俊 は道元だけでなく、『論語』を普及せんとする我々とも縁があった。若き日の道元は俊 から新注を借りて読んでいた、と仮説が蔦のように伸びる。季安が吐露した「書して博識を俟つのみ」と同じ心境である。

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