2013年4月 「論語と道元禅師」(十三) 本会副会長 目黒 泰禪
「むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず」
 
 新入生、新入社員の季節である。緊張するのは彼等だけではない。受け入れる側の先生も上司もまた同じである。学校のクラブやスポーツ界で指導者が加える執拗な体罰やパワーハラスメントが問題となっている。禅寺では、僧堂の静寂を裂くように警策の音が響く。坐禅中の惰気や眠気を払うために、警策という長さ約一四〇センチ、手もとが円形で先にいくにしたがい扁平となる棒で、修行僧の肩が打たれる音である。
 道元禅師はある夜の法話で「住職とか長老といわれる身であっても、もしくは師匠、指導者であっても、弟子が道理に外れていたら、慈悲心、老婆心をもってよく教え導かねばならない。その時、たとえ打たねばならないものは打ち、叱らねばならないものは叱り責めても、相手の過失を言い立て、悪しざまに謗る気持ちをおこしてはならない」と話す。また恩師の如浄禅師が説法する時はいつも「私は既に年老いたので、退隠し庵を結んで老後を養っておればよいのだが、修行僧の指導者として、皆の迷いを破り、仏道を助けるためにこの天童山の住職をしている。このために、あるいは叱り責める言葉を口にし、竹箆(約五十センチの弓形の竹の棒)で叩くなどをする。これらは非常に慎むべきことである。ではあるが、これは仏に代わって教えているのであるから真意を誤解しないで、慈悲の心をもってこれを許して貰いたい」と言われた、この如浄の言葉を聴いて修行僧皆が涙を流したという逸話を紹介する。続いて道元は「このような心をもってこそ、修行僧を教育することが出来るのである。修行僧に対してむやみに統率的な行動をし、支配下にあるもののように思って叱り責めるのは間違っている」(『正法眼蔵隋聞記』第二)と説いている。教育に携わる人間は、この道元の言葉を噛みしめる必要がある。「教育とは流水に文字を書くような果てない業である。だがそれを岸壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」と教育者の森信三は言う。叱るときも褒めるときも真剣である。道元は「むか(面)ひて愛語をきくは、おもて(面)をよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むか(面)はずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」(『正法眼蔵』菩提薩 四摂法)と言う。面と向かって愛語を言われると、聞く人の顔はほころび心もうれしくなる。間接的に人伝えに愛語を聞けば、肝に銘じ魂の奥底まで響く。
 『論語』公冶長篇に、孔子が弟子の子貢に「お前と顔回のどちらが優れていると思うかね」と聞き子貢が「私がどうして顔回と肩を並べることができましょうか。顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて、せいぜい二を知る程度です」と答える場面がある。これに対して孔子は「その通りお前は顔回には及ばないね」と肯定しながら直ぐに「実は私もお前と同じように及ばないよ」と言う。先生と同じと言われて喜ぶ子貢の顔と、この話しを耳にして更に精進を重ねる顔回の姿が目に浮かぶ。

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