2012年12月 「論語と道元禅師」(九) 本会副会長 目黒 泰禪
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり」

「回や一を聞いて以て十を知る」(公冶長篇)

と言われた孔子の弟子、顔淵(顔回)。その顔淵がとり上げられた章は『論語』に二十一章あるが、顔淵が直接質問して孔子がそれに答えるのは、「顔淵、仁を問う」(顔淵篇)と「顔淵、邦を為めんことを問う」(衛霊公篇)の二章だけである。では孔子は「仁」について顔淵にどう答えたのか。
「顔淵、仁を問う。子曰わく、己に克ちて礼に復るを仁と為す」、私利私欲に打ち勝って、社会の秩序と調和を保つ礼に立ち戻るのが仁であると答えている。
 九十七歳になられた伊與田覺学監はここを、己に克つとは、私利私欲に打ち克つこと、もっと言えば我を捨てることであると言う。人は我を捨てた瞬間に素直になり、天と相通ずることができると説明される。もっとも三千人といわれた孔子の弟子の中でも殆どがこの真意を理解できなかった。しかし孔子が後継者として目した顔淵は、「克己復礼」と言う言葉を示唆されただけで、その真意を深く理解できたという。
 道元禅師は『正法眼蔵』現成公案の巻で「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と説く。伊與田学監がいう天と相通ずることができると、道元の言う「万法に証せらるゝ」、あるいは『正法眼蔵』帰依仏法僧宝の巻で説いている「感応道交」(衆生の所感と仏の能応と相通じ合致する、つまり、我々の心と仏の心とが相互に呼応し響き合う状態)ということとは、当に同じである。
 呼吸は先ずは吐かない(吾我を離れない)限りは、決して吸う(仏・法・恁麼を得る、天命を知る)ことはできない。赤ちゃんの「おぎゃあ」と叫ぶ第一声も吐く息から始まる。坐禅の要術も「身心をとゝのへて、欠気一息(口から大きな息を出すこと)あるべし。兀々として坐定(山のように動かないさま)」(『正法眼蔵』坐禅儀)である。
 孔子が「己に克ちて」といい、道元は「自己をわするゝ」と言う。自分ならどう表現するであろうか。と、自己に問う自体がすでに吾我であろうか。

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