2012年11月 「論語と道元禅師」(八) 本会副会長 目黒 泰禪
「おのれいまだわたらざるさきに、
一切衆生をわたさん」

 孔子自らが「仁」について論じた章は、『論語』約五百章の中の一割を占め、弟子の力量に合わせて様々に「仁」を説いている。当に仏教語でいう応病与薬である。また多少覚えの遅い樊遅という弟子に対して孔子は、その理解の進歩に合わせて三度も「仁」を噛んで含めるように教えている。道元禅師が孔子の道を「仁」と捉えていたことは既に七月号で触れた。
 「仁」について述べられた約五十章のうち、もし「夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」(雍也篇)の章句に出逢わなかったなら、私は今のように論語普及という活動をしていなかったのではと思う。この章句は、自分が立とう、のびようと思えば、という前提のもとに先に人を立て、のばすというように、自分を主とした言葉とも読めるが、先ずは自分よりも人を第一と考えるのが仁者である、と私は読んだ。つまり大乗仏教の重要な眼目である利他行と同じと理解したのである。他を先にわたして自らは終に仏にならず、ただただ衆生をわたすという菩薩の願いそのものであると。
 今から十七年前のことである。このように理解すると『正法眼蔵』と『論語』を同時に学んでも障りがない、むしろ安岡正篤先生の「敬という心は、言い換えれば少しでも高い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心であります。それは同時に自ら反省し、慎み、至らざる点を恥づる心になります。少しでも高きもの、尊きものに近づき従ってゆこう、仏・菩薩・聖賢を拝みまつろうということが建前となると、これは宗教になる。省みて恥じ、懼れ慎み戒めるということが建前となると、道徳になる」(『人間学のすすめ』)という言葉を思い出し、戦後教育の歪みで宗教観を持たなくなった子供たちに、何としても敬の心を涵養するため、『論語』から始めなくてはと思ったのである。その後から『正法眼蔵』を話しても決して遅くはない。
 道元は『正法眼蔵』発菩提心の巻で「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」「たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他(自れ未だ度ること得ざるに先づ他を度す)の心をおこすべし」と説く。「達す」は『広辞苑』に、ある場所・位・程度に至る、深く通ずるとあり、『字統』では、羊が子を生む形で、その生むさまの脱然として安らかであることをいう。他の章句「賜や達なり」(雍也篇)も「是れ聞なり、達に非ざるなり」(顔淵篇)も何れも「達」と読むが、私としては「己達らんと欲して人を達す」と読みたい。

Copyright:(C) 2012 Rongo-Fukyukai. All Rights Reserved.