2012年9月 「論語と道元禅師」(六) 本会副会長 目黒 泰禪
 「学道の人、衣食にわづらふことなかれ」 「モミジ(モミチ)ソム」「モミジマウ」が「サクラサク」「サクラチル」に取って代わるかも知れない。五年後に東京大学を始めとする秋季入学が導入される。ゆくゆくは入学試験も夏に実施され、合格通知の電文も変わるだろう。もっとも電報そのものがメールに取って代わられ、既に「合格通知電報」なる言葉が死語となったのかも知れない。何れにせよ「国家有為の人材を育てる」のであれば九月入学も大いに結構なことである。いっそ春の入学試験はそのままで、合格した大学に入る九月までの間を自衛隊に入隊して心身共に鍛えて貰う方がはるか国の為になる、という声を聞くが妙案である。
 孔子は学(道)を志す弟子に対して、その心構えを言う。『論語』には「君子は食飽くを求むること無く、居安きを求むること無し」(学而篇)とある。また「士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ與に議るに足らざるなり」(里仁篇)と言い、「君子は道を謀りて食を謀らず。・・・君子は道を憂えて貧しきを憂えず」(衛霊公篇)と諭す。その端的な例は、孔子自らが最も嘱望した弟子顔回を「賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、顔回はそんな苦境にあっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物だなあ顔回は」(雍也篇)と評している。
 孔子の第七十七代孔徳成先生の生活もまた「食飽くを求むること無く、居安きを求むること無し」という質素な生活であられたと孫の孔垂長先生が語られたのは記憶に新しい。
 道元禅師もまた幾度も貧なれと言う。「学道の人は最も貧なるべし。世間の人を見ると財産のある人には、まず憎しみの憤りや恥辱から起こる二つの難が必ず起きてくる。宝があれば人はこれを奪い取ろうと思い、持っている人が取られないようにすれば、取ろうとする人の憎しみの憤りがたちまち起こる」(『正法眼蔵随聞記』第三)と言い、「学道の人は先須く貧なるべし。財産が多ければ必ずその志を失う。在家にあって仏道を学ぶ者でも、なお財宝にまつわり、安住をむさぼり、親族と交わっているならば、たとえ仏道を学ぼうとする志があってもその道を得るのに障りとなる因縁が多い」(『正法眼蔵随聞記』第三)と語り、「学道は先すべからく貧を学すべし。名利を捨てて一切諂うことをせず、万事をなげすてれば必ず立派な仏道を行う者となる」(『正法眼蔵随聞記』第五)と道元は説く。
 「学道の人、衣食にわづらふことなかれ。日本は辺境の小さな国であるけれども、昔も今も顕密の仏教が栄え、後代になっても人に知られた立派な僧が多い。あるいは詩歌管弦の家柄があり、文武学芸の才人もあり、そのそれぞれの道を嗜む人も多い。しかしこうした人々の一人として衣食に豊かであったということを聞かない。皆貧乏を忍んで余事を忘れ、一向にその道を好み究めたのである。であるからその道の名声をも得たのである」(『正法眼蔵随聞記』第六)との言葉は、実に説得力がある。

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