2012年8月 「論語と道元禅師」(五) 本会副会長 目黒 泰禪
 「在家は孝経等の説を守て生につかへ死につかふる」 
また暑いお盆を迎える。私と家内を産んでくれた四人の親に感謝するとともに、尊い命を犠牲にしてこの日本を守って逝かれた英霊を追悼し、感謝の誠を捧げたい。日本人にとってこの八月がどのような月であるか、すべてを凝縮した萩原枯石の句がある。
 「八月や 六日九日 十五日」 
 さて『論語』の陽貨篇に「子生れて三年、然る後に父母の懐を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪なり」とある。幸いに二人の孫を得て、初めてこの言葉の意味がわかった。一人娘の育児にはあまり関わらなかったが、孫との係わりの中で「三年、父母の懐」が本当に実感できた。自分という存在そのものを考えるとき、私を本当によく産んで頂いたと、親に唯々手を合わせるしかない。父と母がいて、その両親に夫々二人の親がいて、また更に各々二人の親がいてと数えて、十代遡ると千二十四人、三十代まで遡ると十億七千三百七十四万千八百二十四人と膨大な数のご先祖様が居られる。そのご先祖様が一人違っても今の自分の存在はない。洵に有難い限りである。  
 生命誌を提唱する中村桂子博士によると、我々のDNAのゲノム(全遺伝情報)を解析すると、この宇宙に生命が誕生した三十八億年前からの歴史を遡ることができるとのことである。生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの因縁により、生まれかわり死にかわり、死にかわり生まれかわり、三十八億年の歴史を背負い、この宇宙に唯一の私として存在する。家内も娘も孫もすべからく同様である。道元の言葉では、「人身うることかたし、仏法あふことまれなり」「いまわれら宿善(過去より積重ねられた善い因縁)のたすくるによりて」「すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき仏法にあひたてまつれり」である。  
 さて出家の立場の道元禅師は、親に対する孝や親の恩をどのよう言っているであろうか。
 「孝順は最も重要なことであるが、出家と在家の区別がある。在家の場合は『孝経』等に説かれていることを守って、生きている間も亡くなった後も父母に仕えることであることは世の中の人は皆知っている。出家の場合は父母の恩を捨てて世事を否定した世界に入るのであるから、自分一人の父母に恩を報ずるのではなく、すべての生きとし生けるものの恩はみな平等に父母の恩と同じく深いと思って、全ての善根を広い世界に行きわたらせるようにすることである。出家の孝順がもし別して今生の親子一代間のことに考えられて、父母に仕えることに限られたならば、出家の道に背くことになる。従って出家者が父母の忌日の追善とか四十九日の法要など、特別に一人のためだけに廻向(自分のなした善根功徳を他者のために廻し向けること)をするのは仏意ではないであろう」(『正法眼蔵随聞記』第二)と道元は言っている。道元は『孝経』の「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。…春秋に祭祀し、時を以て之を思う。生事には愛敬し、死事には哀 す」を知るがゆえに、出家として「仏祖も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。仏祖も諸縁なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる」(『正法眼蔵』行持)のである。

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