2012年5月 「論語と道元禅師」(二) 本会副会長 目黒 泰禪
 「今日一日道を聞て仏意に随て死せん」 弟子の懐奘が書いた『正法眼蔵随聞記』にも道元禅師が「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」
(里仁篇)を引用して法話する場面が二度出てくる。
 ある弟子が修行中の衣食を心配して問うと、「外典に云く、朝に道を聞て夕べに死すとも可なりと。設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも仏教に隨ふべし。…いかに況や未だ一大蔵経の中にも三国伝来の仏祖、一人も飢へ死にし寒へ死にしたるひとありときかず」(『正法眼蔵随聞記』第一)と道元は孔子の言葉を引き合いに出して答える。
 またある夜話には「古人の云く、朝に道を聞て夕べに死すとも可なりと。いま学道の人も此の心あるべきなり。曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けてたまたま仏法にあへる時、此の身を度せずんば何れの生にか此身を度せん。…只思ひきりて明日の活計なくば、飢へ死にもせよ、寒ごへ死にもせよ、今日一日道を聞て仏意に随て死せんと思ふ心をまづ発すべきなり。然るときんば道を行じ得んこと一定なり」(『正法眼蔵随聞記』第二)と道元は言い切る。
 孔子が「朝聞道夕死可矣(死んでも全く悔いはない)」(里仁篇)と断言し、「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす(死力を尽して道を実践する)」(泰伯篇)という道とはどんな道なのか。簡単に聞けるような、得られるような道ではない。釈尊(釈迦)も道元もこの道のため生涯修行し、孔子もこの道のため生涯を行じてやまない。孟子は「其の道を尽くして死する者は、正命なり」(『孟子』尽心章句上二)と言い、道元は「今日一日道を聞て仏意に随て死せん」と言う。聖人や祖師が道を求める姿は徹底しており、生半可な求道ではない。
 孔子や道元―当然ながら釈尊と言い換えてもいい―が求めた道は、天と言っても仏と言っても良い。天命と言っても仏意と言ってもかまわない。神意でも天理でも、宗教的な表現を避けるのであれば宇宙の意思、哲学的には宇宙的原理と言ってもいい。私個人としては、道元が『正法眼蔵』恁麼の巻で敢えて言い表さない恁麼―本来恁麼はそのように・このように・何ものという意味であるが、ここは生きている真実・悟り・無上菩提の意味―を使いたい。
 伊與田覺学監が昨秋の温習会(『論語之友』2011年11月号に掲載)で、孔子には問学と求道の二面があるが、一般は問学即ち学究に留まり求道から悟境まで至る者は甚だ少ない、と戒められた。確かに仏教を仏道と言っても仏学とは言わないし、神道は神学とは言わない。何故に儒教は儒学とも言われるのか。ややもすれば問学にのみ陥り易い、問学に留まり易いと言うことではないだろうか。翻って仏縁を頂きながら『論語』を学ぶ私はどうか。道を求めているつもりで問学に留まっていないか、いつも反省している。

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