2012年4月 「論語と道元禅師」(一) 本会副会長 目黒 泰禪
「朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたりといはず」
 この文言をどこかで目にしたように思いませんか。成道とは、悟る・菩提(梵語)・道を得る・道を聞くの意味です。また涅槃(梵語)は、寂滅・入滅・死。そうなんです。
『論語』
(里仁篇)にある「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」です。日本曹洞宗の開祖である道元禅師(一二〇〇―一二五三)が著書『正法眼蔵』(仏教の巻)の中でこの里仁篇の言葉を変えて表現したものです。
 今月から論語漫遊欄で、『正法眼蔵』や弟子の懐奘が法話を記録した『正法眼蔵随聞記』などから、『論語』に因む話も交えながら、道元禅師の求道弘法について書いて行きたいと思います。読者皆様の忌憚のないご批判を賜りたいと存じます。
 道元は、鎌倉時代の一二〇〇年一月二六日(旧暦正治二年正月二日)、内大臣源(久我家)通親を父とし、摂政関白藤原(松殿家)基房の娘・伊子を母として京都で生まれる。父は土御門通親ともいい、通親の娘が後鳥羽天皇の妃になり、その皇子が土御門天皇になったことから外戚として政治権勢を欲しいままにする。母伊子は絶世の美女といわれ、木曾義仲と掠奪に近い形で結婚させられた人である。義仲の死後、零落した松殿家から通親の側室に迎えられ、道元を生む。平家や源氏を巧みに操る権力の権化である父と二度までも政略結婚の犠牲になった母から生を受けた道元に、両親の影が、幼い時から強い出家への意思、のちの極端なまでの権力への嫌悪となって顕れる。
 三歳にして父の急逝に遇い、以降、異母兄の堀川大納言源通具に養育され、八歳の冬には母をも失う。母方の叔父摂政関白藤原師家が猶子として十三歳の春に元服させようとしたが、「香火の煙を観じて、密かに世間の無常を悟つて、深く求法の大願を起こし玉ふ」(『三祖行業記』)と、比叡山にいる母方の叔父良観法印を訪ね出家の志を告げ、翌一二一三年十四歳で比叡山天台七十代座主公円僧正について剃髪得度し、名を仏法房道元と改める。
 この時代は新しい仏教を興す多くの傑出した僧侶が出た時代で、法然、栄西、親鸞、日蓮、一遍がおり、既成仏教にも明恵、叡尊など優れた僧侶が出た。
 世界に目を向けると、中国では蒙古が勃興し、テムジン(一一六二―一二二七)が蒙古を統一して成吉思汗を称したのが一二〇六年。この遊牧の民・草原の青き狼が、耶律楚材(一一九〇―一二四四)という類い稀な禅人宰相を得て、将に大蒙古帝国(のちの元)としての国家経営、大国運営に目覚めようとしていた時代である。一方欧州では、キリスト教国とイスラム帝国とが聖地エルサレムをめぐって戦う十字軍遠征(第一回派遣一〇九六年から第七回一二七〇年)の時代である。そんな時代に道元は生まれる。

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