今月の論語 (2024年10月) |
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知其不可(ちきふか)
是(こ)れ其(そ)の不可(ふか)なるを知(し)りて、
而(しか)も之(これ)を爲(な)す者(もの)か。
是知其不可、而爲之者與。
(憲問第十四、仮名論語二二二頁)
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〔注釈〕(晨門(しんもん)は言った)「ああ、あのだめだとわかっていながらも、何とかしようと頑張っている人の家の方ですか」と。
〔和歌〕晨門(しんもん)の 人いひけらく よかざるを 知りてなす君 あはれこの君 (見尾勝馬)
今月の論語 会長 目黒泰禪
『論語』の憲問篇に、次のエピソードが書かれている。
弟子の子路が魯の城外の石門に宿った。翌朝、城門を入ろうとすると門番が言った。「どちらからおいでか」。子路が「孔家の者だ」と答えた。すると門番は「ああ、あのだめだとわかっていながらも、何とかしようと頑張っている人の家の方ですか」と言った。
孔子の生きた二千五百年前の中国は、国政が乱れて民が苦しんでいた。孔子は、国の指導者には自らの徳を高め民を慈しむように説き、民には人を愛し思いやるように諭した。しかし孔子の願いとはうらはらに、国政も人心もむしろ荒(すさ)み廃れる一途にあった。そのような中で孔子の弟子たちは、師が指導者の歩むべき道として示した「己(おのれ)を脩(おさ)めて以(もっ)て人(ひと)を安(やす)んず」(憲問篇)や、師が自らの志として語った「老(ろう)者(しゃ)は之(これ)を安(やす)んじ、朋(ほう)友(ゆう)は之(これ)を信(しん)じ、少(しょう)者(しゃ)は之(これ)を懷(なつ)けん」(公冶長篇)の言葉を、己の目標・志として実践しようとしていた。孔子一門のあきらめずに、民の安寧、人に安心を与えられるように努力する姿は、おそらく故郷魯の国のみならず他国にも知れわたっていたのであろう。勿論、このような努力を嘲(あざけ)り見ていた指導者もいた。諦(あきら)めからどうせ無駄なことだと思っていた民もいた。が、先の晨門(しんもん)は違った。孔子と弟子たちの民の安寧、平和を求め続ける姿に敬意を表したのである。
文明の発達、科学の進歩は、果たして人類に平和をもたらしているのであろうか。人類最初の戦争、集団虐殺の痕跡といわれるジェベル・サハバ遺跡(アフリカ・スーダン北部)は一万四千年前のことである。農耕や牧畜が始まる以前の旧石器時代から、矢じりで同類の人間をも殺戮していた。この矢じりから始まった武器は、金属の刀剣、槍、弓そして鉄砲、機関銃、大砲、爆弾から焼夷弾となり、ついには原子爆弾。無差別の大量虐殺へと凄惨を極めた果ての今日である。ホモ・サピエンスは、リチャード・ランガムが言う「天使のような性質と悪魔のような性質の、矛盾した本質をもつ」生き物と捉えて、戦争を繰り返すのは人類の性(さが)とあきらめざるを得ないのか。今もウクライナ侵略やガザ侵攻と、依然として戦争は続く。然しながらロシアであってもイスラエルであっても多くの国民は、戦争よりも安寧で平和な家族の日常を冀求して止まない。平和への願いをあきらめてしまっては、指導者の欲望に対して制御が効かない。プーチンとネタニヤフという二人の指導者だけではない。核兵器を狂信する一人の指導者のために、隣接国の世論は「核の傘」に入るだけでは不十分、「核のボタン」を握りたいと変化し、唯一の被爆国日本でもその声が聞こえてくる。民主主義の国でさえ、差別と分断をあおる指導者が選ばれる可能性がある。その指導者には軍需産業とIT企業が絡み與(くみ)するのである。戦争特需は垂涎の的であり食指が動くと、平和は加速度的に遠のく。
話題のNHK朝の連続テレビドラマ『虎に翼』で、モデルとなった三淵嘉子が次席裁判官を務めた「原爆裁判」の判決文は、「米国の原子爆弾投下行為が国際法に違反する」と明記し、「戦争を全く廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」と書く。我々一人一人が、晨門の言う「其(そ)の不可(ふか)なるを知(し)りて、而(しか)も之(これ)を爲(な)す者(もの)」(憲問篇)にならなければ、戦争は無くならない。核兵器の廃絶もできない。人類の性とあきらめてはならない。
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