今月の論語 (2024年9月)
朝聞夕死(ちょうぶんせきし)

子(し)曰(のたま)わく、
朝(あした)に道(みち)を聞(き)けば、
夕(ゆうべ)に死(し)すとも可(か)なり。

子曰、朝聞道、夕死可矣。
(里仁第四、仮名論語四一頁)


〔注釈〕先師が言われた。「朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば、夕方に死んでも悔いはない」
〔和歌〕道きかで 死ぬより朝(あした) 道きゝて 夕(ゆうべ)死すとも なにか惜しまむ   (見尾勝馬)

今月の論語 会長 目黒泰禪

 コロナ禍の昨年一月、一処不住の禅僧が亡くなった。村上光照老師、八十七歳であった。戦争で父を亡くしたが、名古屋大学理学部へ進み理論物理学の道を択んだ。その後、京都大学大学院のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の下で素粒子論を学んだ。在学中に名僧澤木興道老師に出会ったのが機縁となり、自ら「学問はいつでもできる。まずもって生死の問題を明らめねばならない」と、研究者の道を捨て仏道修行を取った。

 当会の古くからの畏友である東京在住の羽鳥庄次氏は、昭和五十年頃であったか、麻布で道に迷っていた目の不自由な雲水に声をかけた。この事がきっかけとなり雲水の師である村上光照老師と出遭う。老師は生涯、常住する寺を持たない出家である。いつも墨染の作務衣で素足に草履、登山用リュックを背負い、求め求められるままに全国を行脚(あんぎゃ)していた。袈裟(けさ)や衣(ころも)、釜や玄米まで入ったリュックは、ゆうに二〇キロを超す。それもその筈、名古屋大学でのクラブは山岳部、剛力のアルバイトで学費の足しにしていたと言う。「どこに行っても、そこが道場。行ったところ行ったところで、みんなありがたいんですわ」。平成七年からドイツでの夏の接心(坐禅修行)に指導者として招かれるようになり、欧州の弟子も多かった。それを聞いた氏は、ドイツから弟子が来てもいいようにと、静岡県川根の小猿郷に修行道場を提供した。それにも拘わらず、老師は全国への行脚を続けた。私は現役時代に氏から声をかけて戴き、老師が定宿(じょうやど)としていた船員会館(安くて自炊ができ、何よりも坐禅をできる畳部屋があった)にお訪ねしたことがある。名前に「禅」がつく私への誡めでもあったろうか、何事も拒まないという和顔の目の奥が実に厳しい。独り身で、肉や魚を一切口にされず、玄米と大根葉の食事のせいか、老師には蚊がよってこなかったと言う。確かに、臭いというより木々のもつ匂いかもしれない。

 『論語』の「朝(あした)に道(みち)を聞(き)けば、夕(ゆうべ)に死(し)すとも可(か)なり」(里仁篇)を、道元禅師は「朝(あした)に成道(じょうどう)して夕(ゆふべ)に涅槃(ねはん)する諸仏(しょぶつ)、いまだ功徳(くどく)かけたりといはず」(『正法眼蔵』仏教より)と言い換えて表現された。成道は菩提(ぼだい)・道を聞くの意味であり、涅槃(ねはん)は寂滅・死である。村上光照老師は「朝聞夕死」そのものであった。

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