今月の論語 (2024年8月)
過而不改(かじふかい)

子(し)曰(のたま)わく、
過(あやま)ちて改(あらた)めざる、
是(これ)を過(あやまち)と謂(い)う。

子曰、過而不改、是謂過矣。
(衛霊公第十五、仮名論語二三九頁)


〔注釈〕先師が言われた。「あやまって、それに気付きながらも改めないのを、本当のあやまちと言うのだ」
〔和歌〕過(あやま)たば 改むべけれ 過つも 改めざるや 眞の過ち (見尾勝馬)

 この四月、映画『オッペンハイマー』を観た。米国で昨年七月に公開されてから八ケ月後の、日本での公開であった。既に米アカデミー賞の作品賞など七部門を受賞していた。日本人の目からして、もっと被爆の惨状を描いて欲しかったとの声もあるが、「これを機に、核廃絶につながれば」との被爆者からの期待も大きい。直接的な凄惨な場面がなくても核分裂・原子爆弾の恐怖を知らしめるのに充分な映像であった。

 一つは、科学者自らが世界の破滅を横においても、知りたいという欲望、その追究に魅入られてしまうという怖さである。一九四五年七月十六日、ニューメキシコ州ロスアラモス研究所で、人類最初の原爆「トリニティ」(オッペンハイマーは、キリスト教の「三位一体」を不遜にも原爆に名付けた)実験をした。オッペンハイマーと彼のチームは、核爆発が大気中の窒素と連鎖反応し地球を破壊する可能性を完全に排除できなかった。それでも実験のボタンを押す、可能性がゼ(・)ロ(・)に(・)近(・)い(・)として。そして八月六日に広島へウラン235原爆「リトルボーイ」(ちび)を、続いて八月九日に長崎にプルトニウム239原爆「ファットマン」(ふとっちょ)を投下した。その後も次々と核兵器の開発は続く。『論語』に「過(あやま)ちて改(あらた)めざる、是(これ)を過(あやまち)と謂(い)う」(衛霊公篇)とある。また英国の数学者で哲学者のバートランド・ラッセル(一八七二年―一九七〇年、一九五〇年ノーベル文学賞)は、原水爆実験以前の一九二四年に「科学が人々を幸せにするのではなく、権力者の力をさらに強くするのに使われることを危惧しないではいられない」(『イカロス』より)と言っていた。科学者は、否、権力者は過ちを改めることなく今日まで来てしまった。私は広島県出身の岸田首相があげる「核兵器のない世界の実現」に與(くみ)する。

 いま一つの恐怖は、オッペンハイマーの心理を描いた黒焦げの人を踏むシーンである。二〇一七年十二年十日、ノーベル平和賞受賞式での広島被爆者サーロー節子さんの三つの単語「焼却され、蒸発し、炭化した」が一瞬よぎる。同時に広島で被爆した歌人の歌をも。

 石炭に あらず黒焦の 人間なり うづとつみあげ トラツク過ぎぬ
 正田篠枝(しのえ)

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