今月の論語 (2024年7月)
女子小人(じょししょうじん)

子(し)曰(のたま)わく、
唯(ただ)女子と小人とは
養(やしな)い難(がた)しと爲(な)す。

子曰、唯女子與小人、爲難養也。
(陽貨第十七、仮名論語二七八頁)


〔注釈〕先師が言われた。「ただ教養のない女性と無知な男性とは、あつかいがむずかしい」

〔和歌〕世の中に あつかひがたき ものあらば ことはり解(げ)せぬ をのこをみなご    (見尾勝馬)

会長 目黒泰禪

 なよ竹の 風にまかする 身ながらも
 たわまぬ節(ふし)は ありとこそきけ  西郷千重子(ちえこ)

 慶応四年(一八六八年)八月二十三日の早朝、会津藩の鶴ヶ城を陥落すべく先鋒を務めた官軍土佐藩の中島信行(因みに中島信行の妻・岸田俊子は、女性運動の先駆者で男女同権を鼓吹、号を湘烟(しょうえん))は、大手門内にある武家屋敷で、二十一人の死装束の女たちが自刃していた奥座敷の光景に息をのむ。そこに虫の息で介錯を求める一人の少女がいた。中島は少女の懐刀をとって突く。少女は感謝しながら絶命したという。そこは会津藩家老西郷頼母(たのも)の屋敷であった。頼母から籠城決定の知らせを受けた妻千重子は、嫡男吉十郎のみを登城させ、五人の娘と二人の妹、頼母の母、さらに一門の老人など計二十一人の自刃を選んだ。

 千重子三十四歳の辞世の句は、婦徳とたわまない婦節を詠う。十三歳の次女瀑布子(たきこ)の発句に、中島が介錯した十六歳の長女細布子(たいこ)の付句した辞世も残る。(松崎哲久著『名歌で読む日本の歴史』から要約引用)

 手をとりて ともに行(ゆ)かなば 迷はじよ   西郷瀑布子(たきこ)

 いざたどらまし 死出の山みち    西郷細布子(たいこ)

 『論語』の陽貨篇に、孔子が言われた「ただ女性と民百姓はあつかいが難しい。近づけるとなれて遠慮がなくなり、遠ざけると怨むようになる」の言葉がある。この一章だけをもって、『論語』や孔子を遠ざけないで欲しい。『論語』は、道徳、人の生きる道を説いた書であると同時に、政治、為政者のあるべき姿を述べた書でもある。当然のことながら、孔子の生きた時代(周代)の背景にある封建制度や身分、家族制を重んじた側面をもつ。そうであるからと言って、普遍的に人の生き方を説いた側面までも拒む必要があろうか。下村湖人が言う「『論語』は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、皮ごとうのみにしてもならない。皮をはいで果肉をたべる、これが要するに『論語』の正しい読みかたなのである」は、真に的を射た一文である。

 孔子の時代は、我々、民百姓にまで教育は施されない。ましてや家庭に縛られた女性はなおさらのことである。教養のない女性や無知な民をあつかいづらいというのは、為政者の上から目線である。「君子」は優れた人物、徳のある指導者、もしくはそれを志す人間。「小人」はつまらない人間、徳のない人物、とするのが一般的な解釈である。されど私は、孔子の時代の君子と小人の意味するところの大方が、為政者と下々の民と解釈しないと腑に落ちない。

 女性の差別や、民の軽視は現代の平等の見地からそぐわない。男女上下の別なく己を磨き、「女子と小人とは養い難し」と言われぬように学び続けねばならない。男もうなる西郷千重子母子の気概こそ憶えば。

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