今月の論語 (2022年10月)
不知老至(ふちろうし)

其(そ)の人(ひと)と爲(な)りや、
憤(ふん)を發(はっ)しては
食(しょく)を忘(わす)れ、
樂(たの)しんでは以(もっ)て
憂(うれい)を忘れ、
老(おい)の將(まさ)に
至(いた)らんとするを知(し)らざるのみと。

其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。
(述而第七、仮名論語八七・八八頁)


〔注釈〕「その人となりは、道を求めて得られないときには自分に対して憤りを発して食事を忘れ、道を会得しては楽しんで心配事も忘れ、そこまで老いが迫っているのも気づかないような人だと」

会長 目黒泰禪

 クラシックのピアノもジャズのトリオも、その音色が好きである。色々なピアニストのCDを持っているが、特にこの三年間、よく聴いている一枚のCDがある。舘野泉の『風のしるし 左手のためのピアノ作品集』である。舘野は、一九三六年東京に生まれたフィンランド在住のピアニスト、もうすぐ八十六歳になる。私のちょうど一回り年上である。六十五歳の時(二〇〇二年一月)にフィンランドで演奏中に脳溢血で倒れ、右半身が不随になり、ピアニストの生命線ともいえる右手が動かなくなった。それでも、いつか必ずピアノを弾くことに戻っていくという確信があったという。その二年後、左手だけで演奏するようになった。そのCDを買い求めたのは十八年前である。コロナ禍になってからは、この『風のしるし』のアルバムを聴くと前向きになれる。もともと好きであったバッハ作曲「シャコンヌ」の曲調のみならず、舘野というピアニストの生きる姿勢に励まされるのである。昨年十二月五日、日経新聞の文化欄で「生きている限りピアノを弾いていきたい」とあり、心からの拍手をおくった。「生」を頂いたからには「老・病・死」も戴く。この世に生命を受けた瞬間から、「生・老・病・死」の苦しみを経験しなければならないと理解はしているが、そのことをいつも意識していたわけでもない。ただこの歳になると、「老い」と「病」は常に身近にあって、いやが上にも「死」は意識せざるを得ない。麻痺が進み車椅子でステージにあがっているという舘野の、最近のピアノも聴いてみたい。

 『論語』の述而篇に、孔子自ら自分の人となりを語った章句がある。楚の国の葉(しょう)という地方の領主が、孔子の人物像を子路に尋ねた。子路は答えなかった、と言うよりも答えられなかった。その話を聞いた孔子は「お前はどうしてこのように言ってくれなかったのだ。『その人柄は、道を求めて未だ得ることができない場合、精神を奮い起こしてことにあたり、それに熱中して食べることさえ忘れる。つらく苦しいことがあっても、そのなかにも道を楽しみ、心配事などいっさい忘れてしまう。ひたむきに精進して、歳をとり人生の終りが近づいていることなど全く気づかない、ただそれだけ』と」

 この章句は、舘野泉の左手のピアノに繋がり、伊與田覺学監、村下好伴先生の有り形に重なる。当に「老の将に至らんとするを知らざるのみ」。

食(し)を忘れ 憂を忘れ 老(とし)忘れ 學に親しむ 我と知らずや
(見尾勝馬『和歌論語』)

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