今月の論語 (2022年8月)
不舎昼夜(ふしゃちゅうや)

子(し)、川(かわ)の上(ほとり)に
在(あ)りて曰(のたま)わく、
逝(ゆ)く者(もの)は斯(かく)の如(ごと)きか。
晝夜(ちゅうや)を舍(お)かず。

子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜。
(子罕第九、仮名論語一一九頁)


〔注釈〕先師が川のほとりに立って言われた。「時の流れはこの水のようなものであろうか。昼も夜も休まない」

会長 目黒泰禪

 孔子が、ある時、川のほとりに立って「あらゆるものが、時間も生命も、この流れのように過ぎ去って行く。昼となく夜となく」(子罕篇)と嘆息された。

 孔子の「川上の嘆」の章句を、釋迦の説く「諸行無常」、もしくはヘラクレイトスの言う「パンタ-レイ(万物流転)」やニーチェの「永遠回帰」のように、哲学思想的に解釈したいと思う時もある。しかし『論語』が道徳の書であり政治の書であることを踏まえるならば、民を安んずることのない政治への失望と、自らが政治に関わるには歳をとりすぎたという諦念がゆえの嘆息であろう。孔子の生きた春秋末期は、諸国の乱れた政治と疲弊していく民という厳しい現実があった。徳を以て為す政(まつりごと)から乖離し、教えざる民を戦いに駆り出す指導者への憤りであり、為すべからざることを為し、為すべきことを為さぬ指導者への慨(なげ)きである。

 春秋末期から二五〇〇年を経た現在も、歴史から学ばず、同じことを繰り返す指導者がいる。当時よりも巨大な権力をもって不義、不条理に走る。それも一己の野望のためにである。民族や国家の違いに、宗教や言語、歩んできた歴史の違いが複雑に絡まり、民もまたSNS等で昔時より他国への憎悪をあおられる。日経新聞の土曜日掲載の『歌壇』三枝昻之選(六月十一日)に、「特撮も 映画もマンガも ここまでは 悲惨ではない ウクライナ危機 月城龍二」とあった。連日報道される映像に、少しずつ麻痺していくと言うのであろうか、慣れていくと言うのであろうか、あの怒りや憤りがうすれる時がある。いけないと思うと同時に、慣れに対する怖さを感じる。「時はあらゆるものを貪る」という諺があるように、天を衝く憤慨もしだいに凋(しぼ)んでいき、しまいに心にかからなくなり、無関心となる。

 ウクライナのゼレンスキー大統領のオレナ夫人が「世界の皆さん、今起きているこの戦争にどうか慣れないでください」と訴え、フランシスコ・ローマ教皇が「戦争がどこか遠くの出来事であるかのような生活に慣れてしまわないように」とSNSでツイートする。期間の長さと情報の多さが比例相乗して、我々に諦めと無関心をもたらす。冒頭の「川上の嘆」も、封建体制下と雖も、民の政治への諦めや無関心が、孔子の嘆きをより深いものにしたのではないだろうか。マザー・テレサの「愛の反対は憎しみでなく、無関心です」を心に刻みたい。

逝(ゆ)くものは かくあらまほし 晝も夜も 學(まなび)の道に 勉めいそしめ
 (見尾勝馬『和歌論語』)

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