今月の論語 (2021年7月)
諸夏夷狄(しょかいてき)

子(し)曰(のたま)わく、
夷狄(いてき)の君(きみ)あるは、
諸夏(しょか)の亡(な)きが如(ごと)くならざるなり。

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
(八佾第三、仮名論語二五頁)

〔注釈〕先師が言われた。「夷狄の国に立派な君主があって秩序が保たれているのは、中国で君主がありながら、ないがしろにされて国が乱れているような嘆かわしいものではない」。
会長 目黒泰禪

 「不如諸夏」の「不如」を、「ゴトクナラズ」と読めば「夷狄の国にさえ立派な君主がいる、中華諸国のように君主有れども無きがごとき状態とは違う。(なんと嘆かわしいことか)」との解釈になる。「シカズ」と読めば「夷狄の国はかりに立派な君主がいたとしても、君主がいない中華諸国にもおよばない。(それは中華に礼楽があるからだ)」の解釈である。私は、八佾篇全体の論調からして「シカズ」の読みを採用したい。この「諸夏夷狄」や「中華外夷」という中華思想は、現代まで連綿と引き継がれ、習近平(シー・ジンピン)体制になってからはむしろ政権維持の道具として用いられている。

 この春、唐招提寺御影堂の国宝「鑑真(がんじん)和上(わじょう)坐像」が京都国立博物館で、また東山魁夷「御影堂障壁画」全六十八面が神戸市立博物館でそれぞれ特別公開された。鑑真和上は、七四二年に留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)から、仏法が日本に伝わり広く信仰されるようになったが未だに戒律の師がいないので、是非とも伝戒師の派遣をお願いしたいと懇請された。鑑真はかつて長屋(ながや)王(おう)(天武天皇の孫)から唐に寄進された「山川域を異にすれども、風月天を同じうす。諸(これ)を仏子に寄せて、共に来縁(らいえん)を結ばん」の四句が縫いとりされた袈裟千枚を思いおこした。日本は仏法興隆に有縁(うえん)の国であるとして、自ら渡日を決意するが、妨害や難破で失敗すること五度。七五三年に至って遣唐大使藤原(ふじわらの)清河(きよかわ)が鑑真の来日を願い出たことにより、六度目にしてようやく日本の地を踏むことができた。この時に著名な文人蕭(しょう)穎士(えいし)も招聘(しょうへい)したが、病を理由に断られた。儒教を背景に持つ中国知識人の夷狄に対する意識が根底にある。渺渺(びょうびょう)たる東瀛(とうえい)(東方の大海、日本のこと)へ命の危険を犯してまで渡る、とは考えられなかった。日本に『論語』がもたらされたのは、中国大陸の漢や魏、晋から直接ではない。朝鮮半島の百済からである。往来人物の大勢として七世紀以前は朝鮮半島からの渡来者が多く、八世紀以降、中国大陸からの渡来者が増加する。その多くは僧侶であった。中華思想の儒教と求道(ぐどう)弘法(ぐほう)の仏教との違いが顕著である。

 七世紀の遣唐使は一、二隻での渡航で、八世紀になると四隻が基準となる。七五三年に帰航した遣唐使団は、第一船の大使藤原清河と玄宗皇帝に重用された阿倍(あべの)仲麻呂(なかまろ)、第二船に副史大伴(おおともの)古麻呂(こまろ)と鑑真、第三船に副史吉備(きびの)真備(まきび)、第四船は判官布勢(ふせの)人主(ひとぬし)という四隻であった。このうち第一船目だけが、沖縄に至りつつも逆風に遭い、ベトナムに漂着。翌年、清河と仲麻呂は唐の都の長安に戻るが、皇帝からは再びの帰国が許されず唐で没した。そうであっても、難破、密航ものともせず帰国して欲しかった。中華思想の虜(とりこ)になったとまでは言わないが、蕭穎士と同類にみられてもやむを得まい。

 夷狄(いてき)にも 君ましまして 治まるに もろ〱の國 君なく亂る
 (見尾勝馬『和歌論語』)

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