今月の論語 (2021年5月)
志士仁人(ししじんじん)

子(し)曰(のたま)わく、
志士(しし)仁人(じんじん)は、
生(せい)を求(もと)めて以(もっ)て
仁(じん)を害(がい)すること無(な)く、
身(み)を殺(ころ)して以て
仁を成(な)すこと有(あ)り。

子曰、志士仁人、無求生以害仁。有殺身以成仁。
(衛靈公第十五、仮名論語二三一・二三二頁)

〔注釈〕先師が言われた。「志士仁人は、命を惜しがって仁徳をそこなうことはなく、時には命をすてて、仁徳を成し遂げることもある」。
会長 目黒泰禪

 「始終夷狄の侵略を受け、甚だしきは百年二百年に亘ってその征服に甘んじている。漢人ぐらいつまらぬ奴はないと、ついつい侮蔑(ぶべつ)するのも無理ならぬ点がある。然し私はその半面に又非常に畏(おそ)ろしいものを彼等に発見せざるを得ないのである。彼等は一体侵略され征服されて参ったであろうか。意地も張りも脱(ぬ)けて家畜の様になったであろうか。数千年の歴史の果(はて)に孤影(こえい)悄然(しょうぜん)(孤独でものさびしいさま)となっているであろうか。否(いな)彼等は終始渝(かわ)らず悠揚(ゆうよう)として一面にさながら爬虫類の様な根強い原始的性命を持ち、征服者侵略者をいつの間にか軟化し、籠絡(ろうらく)して、やがて之を排除せねばやまなかった。」

 この言葉は、支那事変初期に書かれた安岡正篤先生の『経世(けいせい)瑣(さ)言(げん)』の一節である。「うかうか支那に狎親(こうしん)するならば、これくらい危険はない」とも言う。

 三月十八日、バイデン米政権下で初の米中外交トップの直接会談がアンカレジで開催された。初日の協議後、人民日報の拡散した写真は微博(ウエイボー)(中国版ツイッター)で話題になった。今回の米中協議の場面と、一九〇一年清朝と列強八ヶ国連合の北京議定書締結の場面とを比較した写真である。義和団事変に対する巨額の賠償金をのまされ、清朝は滅亡への一途をたどる。

 かつて浙江省の西湖を巡った折に、南宋の武将岳(がく)飛(ひ)の廟を訪ねたことがある。岳飛は南下する夷狄の金軍を破って勲功をたてたが、敵国の金と通じた宰相秦(しん)檜(かい)の讒言(ざんげん)により一一四二年獄死した。のち救国の英雄として岳王廟に祀られ、今も「尽忠報国」の臣とあがめられている(因みに日本においても幕末の志士橋本左内は、十二歳の時に岳飛を慕い景岳と号している)。廟の傍らに秦檜夫妻が後ろ手に縛られ跪く像がある。ゴミを投げつけ唾を吐きかけ、八百年に亘って昨日のことのように恨みを指嗾(しそう)(そそのかすこと)してやまない。米中協議では韜(とう)光(こう)養(よう)晦(かい)(才能や野心を隠して力をたくわえるさま)から脱皮して本来的性命をあらわにした。彼等にとって北京議定書の締結はほんの百二十年前のことである。

 孔子は「志士(しし)仁人(じんじん)は、生(せい)を求(もと)めて以(もっ)て仁(じん)を害(がい)すること無(な)く、身(み)を殺(ころ)して以(もっ)て仁(じん)を成(な)すこと有(あ)り」(衛霊公篇)と言われた。仁義、道義のためには命を捨てても為すということである。江戸前期の儒学者山崎闇斎は弟子へ試問して、孔子が大将となり孟子が副将となって日本を襲ってきた時は如何にすべきかと尋ねた。誰一人として答えられないのをみて、「之と一戦して孔孟を擒(とりこ)にし、以て国恩に報ぜん。此れ即ち孔孟の道なり」(『先哲叢談』)と示す。近年彼等は沖縄県石垣市尖閣諸島への領域侵犯を繰り返している。狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に廻らす覚悟と強さが求められる。寸土を失うものは、全土を失う。

 生(せい)もとめ 仁を害(そこな)ふ ことなかれ 仁がためには 身をも擲(なげう)て     (見尾勝馬『和歌論語』)

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