今月の論語 (2021年3月)
文献不足(ぶんけんぶそく)

殷(いん)の禮(れい)は
吾(われ)能(よ)く之(これ)を言(い)えども、
宋(そう)は徴(しるし)とするに足(た)らざるなり。
文獻(ぶんけん)足(た)らざるが故(ゆえ)なり。

殷禮吾能言之、宋不足徴也。文獻不足故也。 
(八佾第三、仮名論語二七頁)

〔注釈〕(先師が言われた)「私は殷の礼の話をよくするが、宋(殷の子孫の国)には証拠だてるものが足りない。それはこれを伝える書物がなく人物もいないからだ」  会長 目黒泰禪

 周の武王は殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討ち殷王朝を滅ぼしたが、武王の子成王(せいおう)は紂王の異母兄である微子(びし)啓(けい)を宋に封じて、殷の先祖を祀らせた。微子は暴君の紂王を諫めた殷の三仁の一人で、孔子の遠祖と言われる。殷王朝末裔の孔子でさえ、「殷(いん)の禮(れい)は吾(われ)能(よ)く之(これ)を言(い)えども、宋(そう)は徴(しるし)とするに足(た)らざるなり。文獻(ぶんけん)足(た)らざるが故(ゆえ)なり」(八佾篇)と言われた。殷の礼制について話すことはできるが、殷の子孫の国である宋の制度からそれを論証することができない。その制度を伝える「文(ぶん)」(記録、書物)もなく、またそれを語り継ぐ「献(けん)」(賢人、古老)もいないからである。「文献足らざる(文献(ぶんけん)不足(ぶそく))」ために私の話すことを正しいと証明できない、と孔子は嘆かれた。国破れ滅びるということはそういうことである。中国のような易姓革命の国では尚のこと、たとえ国土が残ったとしても「文献不足」は免れない。戦後の日本は正にそうである。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、WGIP)」によって、世界に冠たる日本の国体、古来持っていた日本人の美徳、志ある日本の先賢先達、神々も我々も森羅万象すべて同胞(はらから)という信仰をも含めての信念が揺らいでゆく。周到に準備されたWGIPによって、自虐的に日本という国家を観るようになって行く。江藤淳の言を借りれば、「そればかりでない。いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、CCD(米軍民間検閲支隊)が消滅し、占領が終了したのちになっても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」(『閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本-』より)のである。WGIPの狙い通り、日本は昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日サンフランシスコ講和条約の発効により国家主権を回復した後も、日本の思想と文化を日本人自らで崩壊しつづけ、この歩みを止められない。団塊の世代の我々はその時代の真っ直中にあった。

 このような国の有様を憂えた東京帝国大学平泉澄(きよし)博士は、中学生のために「父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ」と『少年日本史』(講談社学術文庫から『物語日本史』と改題して出版)の筆を執られた。また北海道大麻(おおあさ)高等学校の上田三三生(ささお)校長先生は、全校集会で日本の先人の心と生き方に学ぶとする人物講話を続けてこられた。後、講話を中学生・高校生のためにと一冊の本にまとめて出版されたのが『日本人の系譜』(自由広報センター発行)である。致仕の団塊の世代もまた、「文」をもって「献」となり、次の世代に語り継がねばならない。

 夏(か)の禮は わが口にさへ 語れども 文(ふみ)なきゆゑに 知るよしもなき       (見尾勝馬『和歌論語』)

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