今月の論語 (2021年1月)
朋遠方来(ほうえんぽうらい)

朋(とも)遠方(えんぽう)より
來(きた)る有(あ)り、
亦(また)樂(たの)しからずや。

有朋自遠方來、不亦樂乎。
(學而第一、仮名論語一頁)

〔注釈〕「共に道を学ぼうとして、思いがけなく遠方から同志がやってくるのは、なんと楽しいことではないか」
  会長 目黒泰禪

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 年頭に当たり旧年中のご仁援に深謝すると共に皆様のご健祥を祈り、一層のご鞭正を賜りますようお願い申し上げます。

 昨年ほど「朋(とも)遠方(えんぽう)より來(きた)る有(あ)り、亦(また)樂(たの)しからずや」(学而篇)を実感させられた年はない。籠る日が続き、読んだ本はたぶん四書五経を除いても、学生時代の一年間よりも多いだろう。然しながらその読書の楽しさも、「朋遠方より来る」の楽しさには敵わない。もう二十年ほど経つであろうか、村下好伴先生から、明(みん)の陸(りく)紹珩(しょうこう)原纂『酔古堂剣掃』の「君(きみ)と一夕(せき)の話(わ)は、十年(ねん)の書(しょ)を讀(よ)むに勝(まさ)る(與君一夕話、勝讀一年書)」を教えて戴いた。その後、古本屋で大村智玄著の『醉古堂劍掃講話』を求めた。そこには「蓋(けだ)し、無師(むし)獨悟(どくご)とて、獨(ひと)り學(まな)んで獨り悟るが如きは、概(おほむ)ね偏頗(へんぱ)の見界(けんかい)に終始するものなるが故に、良友を得て、共に語り、腹藏(ふくざう)なく意中を披瀝(ひれき)し合つて疑團(ぎだん)を氷解するに勝(まさ)れるは無しと云へる意であらう」とあり、語釈だけでなく、大村智玄の表現自体が好く、以来、座右に置いている。確かに、師父も無く朋友伴侶も居ない中での勉学は、往々にして偏見偏固に陥りやすく、切磋琢磨も鈍りがちになる。師友の存在は大きい。道元禅師も「古人云く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となる」「度々(たびたび)重(かさ)なれば、霧の中を行く人の、いつぬるるとおぼえざれども、自然(じねん)に恥(はづ)る心もおこり、真(まこと)の道心も起るなり」(いずれも『正法眼蔵随聞記』)と言われる。師や友はまことに有難いものである。

 今年もまた、論語温習会などの研修会や講座、伊勢神宮での世直し祈願萬燈行大会、台北孔子廟釋奠(せきてん)(孔子誕辰二五七一年)で、多くの朋友と会える。「朋遠方より来る」がとても楽しみである。

 遠(をち)の朋(とも) わが道慕ひ 來たる日は またこれよりぞ 樂しきはなき
 (見尾勝馬『和歌論語』)

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