今月のことば (2020年12月)
憤啓悱発(ふんけいひはつ)

子(し)曰(のたま)わく、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば發(はつ)せず。

子曰、不憤不啓。不悱不發。
(述而第七、仮名論語八二頁)

〔注釈〕先師が言われた。「自分で理解に苦しみ歯がみをする程にならなければ、解決の糸口をつけてやらない。言おうとして言えず口をゆがめる程でなければ、その手引きをしてやらない」
  会長 目黒泰禪

 三月の初めから、家人以外の人と接触する機会を出来るだけ作らないようにしている。これほど家に籠った経験はない。昨年十二月末に中国武漢で初めて新型コロナウイルス感染者が確認されてから、今日現在(十一月九日)、世界の感染者数は五〇〇〇万人を越えた。冬を迎えて感染第二波に見舞われている欧州と第三波とも言われる米国を中心に増加が加速している。日本もこれからが冬の本番。未だ確かな治療薬もワクチンもない状況下で、直径0.0001ミリメートルほどのウイルスから身を守るには、結局は人との接触を減らすしか手がない。

 「啓発」という言葉がある。『大漢和辞典』では「相手に心の準備の出来た時を見計って、其の意を開き、其の辞を達する」とあり、『論語』述而篇の「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば發(はつ)せず」から出た言葉である。憤(いきどおる)と悱(いいもだえる)、憤悱(ふんひ)でなければ啓発してやらないと、孔子は言われる。弟子自身が積極的に考え求めんとするのでなければ教えないというのである。村下好伴先生は、私と家内の『論語』の師であるだけでなく、ひいては娘や婿、孫たちの『論語』の先生である。その村下先生ともこの感染状況の下では、なかなかお会いできない。先生の俳句にある「陽に包まれて」の午前中の電話か、またはご自宅近くの公園で日向ぼっこをしながらのお話しとなる。先日は電話でお話をした時、「奥さんは元気か」に「はい、今、平泉澄を読んでおります」とお答えした。「大正の三傑だな」「えっ、三傑」「南方熊楠、平泉澄、安岡正篤の三人だ」、続いて大川周明から高田集蔵に話が及び、「集蔵は隠士で、なかなかの人物や。何冊かあるから読むか」と言われた。先生は三十代の頃によく読まれたというから、六十数年前のことであろう。しかし私も家内も高田集蔵を読んだことがない。ご自宅にお邪魔する前に、急ぎいつもの図書館に二冊予約を入れた。先生にお聞きしようにも、白紙の私共には、いきどおり、言いもだえすることさえできない。十月に卒寿を迎えられた村下先生には、まだまだ啓発して戴かねばとつくづく感じる。次の白寿には新型コロナウイルスを克服するか、ウイルスと共存しているであろう。心おきなく盃を干したいものである。

 憤(いか)らずば われは啓(けい)せず 悱(ひ)せざれば われは發(はつ)せず 弟子(ていし)おもひつ
(見尾勝馬『和歌論語』)

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