今月のことば (2020年10月) |
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不秀不実(ふしゅうふじつ)
子(し)曰(のたま)わく、苗(なえ)にして秀(ひい)でざる者(もの)あり。秀でて實(みの)らざる者あり。
子曰、苗而不秀者有矣夫。秀而不實者有矣夫
(子罕第九、仮名論語一二一頁)
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〔注釈〕先師が言われた。「穀物の苗でも花が咲かずに終ってしまうものがある。花は咲いても実を結ばずに終ってしまうものもある」
会長 目黒泰禪
花火も上がらず、盆踊りの太鼓も響かずに夏が終わってしまった。外出の機会はめっきり減ったが、出かける時には、意識して陽の光を浴びるよう歩いている。できるだけ歩く、道端の雑草や田畑の作物を見て歩く。
小さい頃、お盆の供養には必ずと言ってよいほど、白くて香りの強いテッポウユリが供えられていた。その白百合を、最近よく、舗装の切れ目や側溝の割れ目で見かけるようになった。植物学者稲垣(いながき)栄洋(ひでひろ)博士によると、テッポウユリから進化した雑草のタカサゴユリとのことである。もともとテッポウユリは海岸に自生する野生植物であるが、雑草として広がることはない。暗闇でも目立つ白い色で、夕方になると匂いが強くなり、夜行性のスズメガという蛾を呼び寄せ、蛾に花粉を運んでもらう。受粉して種子から花が咲くまで三年かかる。しかしタカサゴユリは蛾に頼らずに自家受粉して種子を作り、わずか数ヶ月で花を咲かせることができるという。タカサゴユリに鼻を近づけてみると、なるほど、香りがしない。昆虫を呼び寄せる必要がないからである。雑草は無駄なエネルギーを消費しない。そのたくましさに感心する。
日本人は、雑草の持つ「踏まれても踏まれても立ち上がる」生命力に、人間の精神力を重ねる。雑草魂と表現して鼓舞する。ところが稲垣博士によると、雑草は「立ち上がる」のではなく「立ち上がらない」という。もっと正確には、「踏まれても踏まれても必ず花を咲かせて種子を残す」のが、本当の雑草魂とのことである。『論語』の子罕篇に「苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり」、立派な苗でもまれに開花しないことや開花しても結実をしないことがある、と孔子は言われた。この章句は、早逝した弟子顔回を追憶して嘆息されたものと解釈されることが多い。しかし雑草を見ながら歩くと、この章句が弟子への哀惜というより、孔子から我々への叱咤と思えてならない。どんなに才能に恵まれていても努力を怠れば才能は花開かない、更なる努力を積まなければ才能は実を結ばない、ましてや凡才の我々には勉学努力しかないと。この歳になっても、否まだこの歳だからこそ、もっと勉学しなければならないと、雑草が教えてくれる。
六年前の夏、当時九十八歳の伊與田覚学監が、分厚い安井息軒著『論語集説』を繙(ひもと)きながら、章句の訓点や語釈の相違点を確認されていた姿を思い出す。そのお歳まで私は三十年ある。まだまだ学びが足りない。ガンジー曰(のたま)わく、「明日死ぬと思って生きよ。永遠に生きると思って学べ」。
苗(なへ)にして 秀(ひい)でざるこそ かなしけれ 秀でゝ實(み)なき なほかなしけれ
(見尾勝馬『和歌論語』)
側溝に咲くタカサゴユリ(目黒会長撮影)
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