今月のことば (2020年9月)
辞達而已(じたつじい)

子(し)曰(のたま)わく、辭は達するのみ。

子曰、辭達而已矣。(衛靈公第十五、仮名論語二四四頁)


〔注釈〕先師が言われた。「言葉や文章は、意思が正確に相手に伝わればそれで十分である」
  会長 目黒泰禪

 新型コロナウイルスから防衛のため、ヒト科ヒト属の特徴である会って言葉を交わすという習性が変わってしまうかもしれない。彼らは、ヒト属の持つ三密(密閉・密集・密接)への嗜好を巧みに利用して世界中に拡散した。見すみす彼らの生存戦略に乗る訳にはいかない。会えないのはストレスであるが、しばらくは会食を粛み会合を避けるしかない。会いたくても、手紙や電話、メール、SkypeやZoom等による画面で辛抱したい。ところで、同じ言葉の表現であっても、手紙やメールに書くと、会って話すよりも言葉一つひとつが伝わっているかどうか不安になる。ヒト属のDNAであろうか。

 孔子は「辞(じ)は達(たっ)するのみ」(衛霊公篇)、言葉は意思が正確に伝われば十分であると言われたが、一方で孔子は『周易』を繙(ひもと)きながら「書(しょ)は言(げん)を尽(つ)くさず、言(げん)は意(い)を尽(つ)くさず」(『易経』繋辞上)と自問自答されている。書物は人の言った言葉を悉(ことごと)く書き記すことはできないし、言葉は心の中に思っていることを残らず言い表すことはできない、と。我々では猶更である。そうであるからこそ、言葉は心の思いを正確に伝えるよう努めたい。

 いつもの図書館の書棚で、たまたま最果タヒという変わった名前に目が止まった。ペンネームの意味は最果ての地だろうか、大地の夕日であろうかと、『きみの言い訳は最高の芸術』という本を手に取った。神戸出身で一九八六年生まれの詩人である。「すべての発言が[湖に落とした小石]のように、波紋(はもん)を生むだけで、跳ね返ってはこないインターネットが好き」(題「ネットは河で、君は石。」より)という一節に、若い世代は何ら返事も共感も期待しないで書いていたのかと、妙な納得をした。あとがきを読んでみると、なるほど「共感されたくて文章を書いたことなんて一度もなかった。わかってほしいとかわかってくれないとかそういうことから切り離されて、文章を書けるからインターネットが好きだった」とあった。「辞は達するのみ」とは真逆の発想かと思いながら、若い詩人の言葉を追った。

 「どんなにシェアされたって、私が聞きたいのはそれじゃない、と思う。SNSで教えてもらった好きな食べ物、好きな音楽、そんなものを知ったところで私はまだまだきみを知らず、きみに会いたいとも思わない。フェイスブックはつながるだけで[友達]だなんて言うけれど、でも他人がかき集めた[好きなもの]を見ただけで、その人のことを知ったつもりになるわけに、いかないんだ。失礼だろう」(題「わからないぐらいがちょうどいい」から)

 なかなかどうしてどうして、この詩人の辞は達するではないか。SNSでコミュニケーションできていると思っているのは、デジタル文化に不慣れな我々世代の幻想らしい。単にスマイルマークや「いいね」、リツイート(転載)だけでは思いは伝わらない。会えない今こそ、自分の言葉で書きたいものである。しかし尽くすことは何と難しいことか。うぅむ。

 子はのらす 辭(ことば)達せば よろしけれ 辭にこゝろ われ傳ふれば
       (見尾勝馬『和歌論語』)

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