今月のことば (2020年6月)
不舎昼夜(ふしゃちゅうや)

子(し)、川の上(ほとり)に在(あ)りて曰(のたま)わく、逝(ゆ)く者(もの)は斯(かく)の如(ごと)きか。晝夜(ちゅうや)を舍(お)かず。

子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜。
(子罕第九、仮名論語一一九頁)

〔注釈〕先師が川のほとりにあって言われた。「時の流れはこの水のようなものであろうか。昼も夜も休まない」
  会長 目黒泰禪

 『論語』に「もののあはれ」を感じさせる章句はない。このように言うと、孔子が川の辺にたたずみ「逝(ゆ)く者(もの)は斯(かく)の如(ごと)きか。昼夜(ちゅうや)を舎(お)かず」(子罕篇)と言われたではないか、と反論があるかもしれない。しかしここでの逝く者は、万物流転ではなく、日月光陰のことである。従って諸行無常を嘆じたものではなく、日々孜孜(しし)として文徳を修めんとの思いである。孔子の生まれた黄土の中原と、我々の緑豊かな島嶼との違いであろう。日本人は、四季がうつろう自然の美しさだけではなく、複数のプレートが重なり合う境界上にあって、地震や津波、噴火、加えて台風や豪雨、自然の猛々しさといつも背中合わせで暮らしている。その所為で日本人は、永遠に存在するものはなく、形あるものは必ず滅びるという無常観を持つようになった。本居宣長の言う「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触(ふ)るるにつけて、その万(よろづ)の事を心に味(あぢは)へて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり」(『紫文(しぶん)要領(えうりやう)』巻上)である。孔子がもののあはれを知らないとしても、已むを得ない。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、当会も活学研修会を延期し、文化講座を休講とした。書棚の積(つ)ん読(どく)本や図書館の本で、外出自粛にあっても読書や勉強はできる。手塚治虫『鉄腕アトム』や横山光輝『鉄人28号』に夢中の頃、一九五七年十月四日に世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた。九歳の時である。ますます宇宙やサイエンス・フィクション(空想科学)の本が好きになった。今でもアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』や『幼年期の終り』は読み返すくらいである。近年は、中国甘粛省生まれで米国マサチューセッツ州在住のケン・リュウが気に入っている。弁護士とプログラマーとしての顔もあわせ持つ多才な作家で、『紙の動物園』や『生まれ変わり』等で日本においてもファンが多い。一人の日本人少年を主人公にした『もののあはれ』というSF短編がある。主人公の父が唐の詩人李(り)商隠(しょういん)『登楽遊原』の句を口にして、「李商隠は中国人だが、彼の詩情はとても日本人的だ」と言う件(くだり)があった。

 偶々、会社時代の同期のM氏から『論語の友』が届いたとの電話があった。漢詩に強いことを思い出し、この件の李商隠について教えを請うと、即座に絶句が口を継いで出た。直ぐにSMSで五言絶句『登楽遊原』と七言絶句『夜雨寄北』の漢詩原文が届き、更には、もののあはれという点では律詩の『無題』ではないかと書いてあった。読んでみて、確かにと納得をした。その頷聯(がんれん)は「春蚕(しゅんさん)死に到りて糸は方(まさ)に尽き、蠟炬(ろうきょ)灰と成って涙は始めて乾く」であった。

 「多聞(たぶん)を友(とも)とするは、益(えき)なり」(季氏篇)と孔子は言われたが、当にそうである。勿論、M氏は「直(なお)き」であり、「諒(まこと)」である。
 晝も夜も 絶えず流るゝ 水のごと 勉めてやまざる 人たのもしき
       (見尾勝馬『和歌論語』)

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