今月のことば (2020年4月) |
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礼楽征伐(れいがくせいばつ)
孔子(こうし)曰(のたま)わく、天下(てんか)道(みち)あれば、則(すなわ)ち禮樂(れいがく)征伐(せいばつ)、天子(てんし)より出(い)ず。
孔子曰、天下有道、則禮樂征伐、自天子出。
(季氏第十六、仮名論語二四九頁)
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〔注釈〕先師が言われた。「天下に道が行われよく治まっておれば、礼楽や征伐の政令はすべて天子より出る」
会長 目黒泰禪
「楽は、恒に国家とともにあった」。この言葉で始まり、この言葉で終わる日本語の論文『上代(じょうだい)支那(しな)正楽(せいがく)考(こう)-孔子の音楽論』(昭和十七年初版三省堂、平成二十年復刊平凡社)がある。著者は先月号の小欄で取り上げた『台湾舞曲』の音楽家江(こう)文也(ぶんや)(本名江文彬(ぶんぴん)、一九一〇年-一九八三年)である。江文也は「たまたま北京にあつて、もはや消滅しつつある孔子廟の音楽『大成楽』六章を聴いて、これらを近代のシンフォニー・オーケストラに復興しなければならないことを痛感して、その研究に着手した」と、一九四二年三月八日のはしがきに記している。また「孔子の潤ひある人間性を発見した驚異と、その豊かな音楽思想、並びに多くの音楽的諸業績を残されたことを知つた驚異とが、私の今まで思つて居た孔子の姿を全部塗りかへて仕舞つたのである」とも記す。本名の文彬は、『論語』雍也篇の「文質(ぶんしつ)彬彬(ひんぴん)として、然(しか)る後(のち)に君子(くんし)なり」から名付けられたものであろう。してみれば交響曲『孔廟大成楽章』を作曲し、音楽論『上代支那正楽考』を著すことが天命であったのかもしれない。
これまで私は『春秋左氏伝』の襄公二十九年「呉(ご)の公子(こうし)札(さつ)、来聘(らいへい)す」の件(くだり)を、公子札に詩経を聞かせ舞を見せたという、単に記録(・・)として読んでいた。ところが『上代支那正楽考』を読んでからは、同じ漢文書き下しの文章にも拘わらず、音楽(・・)として感じるようになった。江文也という音楽家の筆力によるものであり、彼の諸古典籍を引用した論説のお陰である。毎年参列している台北孔子廟での釋奠と『孔廟大成楽章』の旋律が頭に浮かぶ。
『論語』の季氏篇に「天下(てんか)道(みち)あれば、則(すなわ)ち禮樂(れいがく)征伐(せいばつ)、天子(てんし)より出(い)ず」とあり、子路篇に「名(な)正(ただ)しからざれば則(すなわ)ち言(げん)順(したが)わず、…事(こと)成(な)らず、…禮樂(れいがく)興(おこ)らず、…刑罰(けいばつ)中(あた)らず、…民(たみ)手足(しゅそく)を措(お)く所(ところ)無(な)し」とある。また『中庸』第二十八章にも「天子(てんし)に非(あら)ざれば禮(れい)を議(ぎ)せず、…其(そ)の位(くらい)有(あ)りと雖(いえど)も、苟(いやし)くも其(そ)の德(とく)無(な)ければ、敢(あ)えて禮樂(れいがく)を作(つく)らず。其(そ)の德(とく)有(あ)りと雖(いえど)も、苟(いやし)くも其(そ)の位(くらい)無(な)ければ、亦(また)敢(あ)えて禮樂(れいがく)を作(つく)らず」とある。
確かに江文也の言う通り、孔子の時代は、音楽は恒に国家とともにあったのである。孔子にとって礼楽は、「樂(がく)は天地(てんち)の和(か)なり、禮(れい)は天地(てんち)の序(じょ)なり。和(か)なるが故(ゆえ)に百物(ひゃくぶつ)皆(みな)化(か)し、序(じょ)なるが故(ゆえ)に群物(ぐんぶつ)皆(みな)別(べつ)あり」「仁(じん)は樂(がく)に近(ちか)く、義(ぎ)は禮(れい)に近(ちか)し。樂(がく)は和(か)を敦(あつ)くし、神(しん)に率(したが)ひて天(てん)に從(したが)ひ、禮(れい)は宜(ぎ)を別(べつ)にし、鬼(き)に居(い)て地(ち)に從(したが)ふ」(『礼記』楽記)そのものであった。
さて私もSUNRISE RECORDS LTD(上揚有声)の『孔廟大成楽章』を聴いて、先ず家(うち)の一和(いっか)から。
道あれば 天下の寶(たから) 大君の 御手より禮樂 征伐出でむ
(見尾勝馬『和歌論語』)
論語温習会にて(乾理事撮影) |
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