今月のことば (2020年2月)
歳寒松柏(さいかんしょうはく)

子(し)曰(のたま)わく、歳(とし)寒(さむ)くして、然(しか)る後(のち)に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。

子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。
(子罕第九、仮名論語一二四頁)

〔注釈〕先師が言われた。「寒さが厳しくなってはじめて、松やヒノキが他の木のように枯れしぼまないのが判る(人も苦しみにぶつかって、はじめて真価が判るものだ)」
 会長 目黒泰禪

 凛冽たる寒気の中でも色を変えない松柏。孔子は「歳(とし)寒(さむ)くして、然(しか)る後(のち)に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知(し)る」(子罕篇)と表現される。大寒から節分までの十五日間は、一年中で寒気が最も厳しい。この寒さに耐え、黙して立ち続ける。

 陶淵明(三六五-四二七年、中国六朝時代の東晋の詩人)も詠う。「蒼蒼(そうそう)たる谷の中の樹(き) 冬も夏も常に茲(か)くの如し 年年に霜雪に見(あ)う 誰か時を知らずと謂うや」谷の中に眠る松柏は、冬も夏も、いつも蒼蒼たる色を変えない。年々歳々、霜雪に見舞われるというのに、誰が四時を知らないなどと言うのか。「歳寒松柏」「蒼蒼谷中樹」のように在りたいと念うばかりである。

 生まれ育った北海道の冬は、エゾ松やトド松も凍えるような雪の白さの記憶である。オホーツク海は流氷で覆われ、どこまでも白い。時には太陽さえもダイヤモンドダストで白くけむる。小学生の頃、吹雪(ふぶ)けば学校が休みになると喜んでいた。大人の苦になる雪かきや雪下ろしも全然頭になかった。一日中、スキーや艝(そり)で滑り、また本堂の屋根から新雪へ飛び込むのも面白く (危険だから真似はしないで下さい)、まるでゴマアザラシのように雪まみれになって遊んでいた。中学生になると急に、雪で「遊ぶ」から「思う」ようになった。思春期の持つ固有の憂いとでも言うのであろうか、色だけでなく音も匂いも消し去るような新雪に孤独を感じた。今でもその名残か、クラシック音楽は、針葉樹の緑と雪の白さを感じる北欧の作曲家、シベリウス(フィンランド)、グリーグ(ノルウェー)やニールセン(デンマーク)等の蕭寥(しょうりょう)とした曲が好きである。身体に持っている雪の白さの記憶であろうか。

 ただし、少年期の記憶と老年期の現実には、大きな差があり、年々その差が広がり深くなっている。数年前に雪を握り、こんなに冷たかったのかと、ゾクッとした。今では寝床に腹巻、ネックウォーマーと靴下も必需品となり、真冬にはそれに手袋と帽子。氷点下時は「大和おいね」(背(せな)蒲団(ふとん))と総出である。

 歳寒く もろ樹も彫(しぼ)む その折に
  緑いや濃き 松柏の色
       (見尾勝馬『和歌論語』)


元旦の筆者自宅の掲示板(目黒会長撮影)

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