今月のことば (2019年12月) |
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臭悪不食(しゅうあくふしょく)
色(いろ)の惡(あ)しきは食(くら)わず。臭(におい)の惡しきは食わず。飪(じん)を失(うしな)えるは食わず。時(とき)ならざるは食わず。
色惡不食。臭惡不食。失飪不食。不時不食。
(郷党第十、仮名論語一三二・一三三頁)
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〔注釈〕(先師は)色や臭いの悪いのは食べられなかった。煮加減のよくない物や季節外れの物は口にされなかった。
会長 目黒泰禪
孔子は、色や臭いの悪いもの、煮加減のよくない物や季節外れの物は食べられなかった。『論語』郷党篇には、冒頭章句の前後に孔子の食に関する心得が記されている。ご飯がすえて味の変わったのと、魚がくさり肉のくずれたのは食べない。肉のご馳走が多くても主食のご飯の分量を超えない。酒には量がないが、乱れて人に迷惑をかけるような飲み方はしない。冷蔵庫も電子レンジも無い二五〇〇年前であるから、衛生面からの配慮もある。これらの言句は、孔子の食に対する嗜好ではあるが養生訓でもある。特に高齢にある我々は、主食副食のバランスや酒の嗜み方を見習いたいものである。
ところで、串田孫一の随筆『生の歓喜』に「鼻は、眼や耳ほどの芸術をうみ出さなかったという人がいる」とあり、なるほどと納得した。確かに、観る絵画や聴く音楽には優れた芸術作品が多くあり、視覚と聴覚へ同時に訴えかける芸術も多い。しかし嗅ぐ芸術はと考えると、直ぐには出てこない。御香や香水を思い浮かべるが、音楽や絵画ほど一般的ではない。視覚や聴覚に比べて、嗅覚器官で感じたものを精確に表現する言葉は少なく、消えてつかめない香りを人に伝えることは難しい。音の調べや色調があっても、「香りの調べ」がない所以である。『論語』でも同じで、「臭(におい)」は冒頭の一章句のみであり、「嗅(か)ぐ」を含めても二章句しか登場しない。孔子が「詩(し)に興(おこ)り、禮(れい)に立(た)ち、樂(がく)に成(な)る」(泰伯篇、一〇三頁)と言われる音楽の「楽」は十六章句もあり、「歌」の五章句や「瑟(ひつ)(大琴)」の四章句等々、楽曲や楽器の章句を含めると更に多くなる。観る芸術の「絵」は一章句であるが、「朱」「紫」「紺」「黄」等の色は豊かである。もっとも「色」の字そのものは二十三章句あるが、顔色や色欲の意味であるので除いている。
「匂(におい)」の文字は、日本で作られた国字である。国字は凡そ一五〇字と言われ、峠(とうげ)・榊(さかき)・畑(はたけ)・笹(ささ)・躾(しつけ)等がよく遣われている。「匂」は、韵(イン・ウン)の右側の字(旁(つくり))を書きかえた国字で、よい響きの意からよい香りの意となった(『漢字源』)、匀(イン・キン)は中国で「ととのう」の意味を表すが、それを日本で「におい」の意味に用いた上、文字の一部ニを「ニホヒ」のヒに改めた(『新漢語林』)、とある。日本では、いいにおいに「匂い」を用い、いやなにおいを「臭い」と遣い分ける。平安時代中期ころから用いられている。それ故に『源氏物語』第四十二巻の「匂宮(にほふみや)」が、「臭宮」であっては断じていけないのである。
まだ孫が「じぃじの匂いがする」と懐に飛び込んでくる。いずれ「じぃじの臭い」となるかもしれないが、孫とは何時までも「論語の匂う」会話をしたいものである。
色臭(いろにほひ) あしきは食(は)まで 飪(じん)食(たふ)べ 時ならざるもの 食(たふ)べざる君 (見尾勝馬『和歌論語』)
孔家食事会 |
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