今月のことば (2019年8月) |
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危行言孫(きこうげんそん)
邦(くに)、道(みち)無(な)ければ、行(おこない)を危(たか)くし、言(げん)は孫(したが)う。
邦無道、危行言孫。(憲問第十四、仮名論語二〇二頁)
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〔注釈〕(先師が言われた)「国に道が行われていない時には、自分は高く正しい行動をするが、正しい意見でも主張することはひかえる」
会長 目黒 泰禪
何ともやるせない章句である。「行(おこない)を危(たか)くし、言(げん)は孫(したが)う」(憲問篇)と孔子は言われる。勿論、無道の国では、との前提は付く。孔子の生きた春秋時代の中国はそうであった。現在でもそうであろう。それは何も中国に限らない。民主主義の下で言論の自由が保障されている国とは違い、独裁国家や軍事政権下の国ではそうであろう。かつての日本もそうであった。
七月一日は香港が一五五年ぶりに英国から中国に返還されて二十二年を迎えた。今その香港では、中国本土の司法当局への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正に反対するデモが続いている。六月九日は一〇三万人(主催者発表)、十六日には約二〇〇万人(同)の市民が参加した。香港人口七四〇万人の、実に三人に一人である。改正されれば、中国共産党に批判的な活動家が容疑をでっち上げられ、本土への引き渡し対象になるとの不信感は消えない。林鄭(りんてい)月娥(げつが)行政長官は同十八日に、市民の理解が得られない限り改正案の審議は再開しないと表明し、廃案を受け入れた。
然し改正案の完全撤回と、デモを「暴動」と批判した林鄭長官の辞任を強く求めてデモは断続的に続き、二十九日には女子大学生(二十一才)が完全撤退を求める遺書を残して抗議の自殺。七月一日の返還記念日デモにも五五万人(同)が参加した。その中、若者一〇〇〇人以上が立法会(議会)の建物に突入、改正案の完全撤回だけでなく、普通選挙の実現という極めてハードルの高い要求をも掲げた。
この報道に、日本の五十九年前と中国の三十年前、二つの六月の記憶が甦った。
一九六〇年六月十五日、日米安全保障条約改定に反対するストに全国で五八〇万人が参加した。東京では一一万人が国会議事堂を包囲して抗議デモを敢行。共産主義者同盟(BUND)が主導する全学連(全日本学生自治会総連合)約七三〇〇人はスクラムを組んで構内突入を図り、うち七〇〇人が津波のようになだれ込み警官隊と衝突。東大生樺美智子さん(二十二才)が人雪崩の下敷きとなり圧迫死した。その死後二日目、安保条約は自然承認された。
この後、全学連はその総括をめぐって四分(しぶん)五裂(ごれつ)し、連合体としての機能を失ったが、一九六八年から六九年にかけての大学民主化闘争に多くの影響を与えた。団塊の世代の私も含む多くが参加したこの学生運動は、ノンセクトの自発的な闘争体として全共闘(全学共闘会議)が担ったが、ノンセクト・ラディカル(無党派過激学生)の指導の下に過激化を増し、一般学生から乖離(かいり)して衰退した。
一九八九年六月四日、北京の天安門広場などでの平和的手段で民主化や汚職追放を訴える一〇〇万人近い学生らを、中国共産党は「動乱」と断じて軍隊を動員して武力鎮圧、多数の死傷者が出た。鄧(とう)小平(しょうへい)国家軍事委員会主席が「二〇〇人の死が二十年の安定をもたらすだろう」と言ったという。李(り)鵬(ほう)首相が死者は三一九人と説明したが、信じる人は少ない。
学生の過激な行動が香港市民から乖離してしまう恐れを思う。一五五年に亘り同床異夢にあった香港を相即不離の関係に一挙に戻そうとする困難さも。
道あれば 言行危(たか)くし 道なくば 行(おこなひ)危(たか)く 言葉孫(ひく)くせ
(見尾勝馬『和歌論語』)
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