今月のことば (2018年7月) |
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絵事後素(かいじこうそ)
子曰、繪事後素。(八佾第三、仮名論語二六頁)
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〔注釈〕先師が言われた。「絵を描く時は、最後に白い胡粉で仕上げをする」
音を聞いて色を感じ、色を見て音を感じるという特殊な知覚を持った人がいる。音に色を観る、色に音を聴くという表現の方が正しいかもしれないが、二つ以上の感覚が結びつく知覚現象を「共感覚」という。今年の二月、新潟大学の伊藤浩介助教授(認知神経科学)のチームは、「共感覚」の持ち主の感じる「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の七音が、虹の「赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍・紫」七色にほぼ順序よく対応しているとの調査結果を発表した。
学生時代、土壌にキリスト教をもたない私には難解であったフランスの詩人ランボオ。「俺は母音の色を発明した。―Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。―俺は子音それぞれの形態と運動とを調整した、而も、本然の律動によつて、幾時かはあらゆる意味に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希ふ処があつたのだ」(『地獄の季節』錯乱Ⅱ、小林秀雄訳)とあった。これも「共感覚」なのであろうか。
通勤電車の中でよく読んだ中西進『万葉集』に、湯原王(ゆはらのおほきみ)の「夕月夜(ゆふづくよ) 心もしのに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも」(巻八―一五五二)がある。しなえるように(しのに)月・露・蟋蟀(こほろぎ)へと下りてきて、リィリィリィ、鋼(はがね)のような褐色・透き通る青・冴えた黄色へと上る。湯原王のこの感性は「共感覚」かもしれない。
フィンランド生まれのシベリウスは「共感覚」の音楽家として知られ、家の真ん中の暖炉を緑色にしたという。へ長調の音楽が聴こえるという理由からである。へ長調はへ音(F・ファ)を主音とする音階であり、確かに虹色では緑に相応する。いつも聴きながら北海道の森の緑や海の青緑の記憶に到るのは、シベリウスの「共感覚」がもたらすものだろうか。
『論語』に音楽の意味の「楽(がく)」は十六章句もあるが、絵画の「絵」の字は冒頭の一章のみである。孔子の時代は絵画が芸術の範疇(はんちゅう)に入らなかったのか、少なくとも君子の「文を学ぶ」対象には入っていない。しかし弟子の子夏から詩経の一節を尋ねられ孔子は、絵画を例えに「繪(え)の事(こと)は素(しろ)きを後(あと)にす」と答えている。また、口先上手な者が国家を転覆するのを憎むという章句でも「紫(むらさき)の朱(しゅ)を奪(うば)うを惡(にく)む。鄭聲(ていせい)の雅樂(ががく)を亂(みだ)るを惡(にく)む」(陽貨篇、二七二頁)と、色と音の両面から表現している。孔子が「共感覚」であったかどうかは判らないが、画才もあったに違いない。
紫と赤は、虹の色では弧の内側と外側である。シとドは、音階では半音であるがオクターブ違いでもある。ポピュリズム(大衆迎合主義)に走る口先上手な為政者を選んでしまう現代の潮流は、視覚でも聴覚でも赤心を感じとれなくなったということであろうか。
禮儀こそ 忠信(まこと)なければ いかゞせむ 繪事(くゎいじ)は素(そ)より 後になせばと
(見尾勝馬『和歌論語』)
会長 目黒 泰禪
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