今月のことば (2017年9月)
翕純皦繹(きゅうじゅんきょうえき)

子語魯大師樂曰、樂其可知也。始作翕如也。從之純如也。皦如也。繹如也。以成。(八佾第三、仮名論語三四頁)
〔注釈〕先師が魯国の楽官長に話されるには、「優れた音楽とは実にわかりやすいものですね。序奏はひとつにそろい美しい。続いて各楽器の調べが和して美しい。明白な旋律が響いて美しい。終章は余韻を残して美しい。そして美しい楽曲ができあがるのですね」と。

 「翕如(きゅうじょ)たり純如(じゅんじょ)たり皦如(きょうじょ)たり繹如(えきじょ)たり」というと、現在の我々は、クラシック音楽でいう交響曲や協奏曲を連想する。勿論、二五〇〇年前の中国は、我々の知る西洋音楽のオーケストラとは全く違う編成である。九月二十八日の台北孔子廟釋奠(せきてん)で当時の楽曲を聴くことができる。編(へん)鐘(しょう)(二十四或いは十六の鐘を組み合わせた楽器)や編(へん)磬(けい)(十六の厚みの異なる石板の組み合わせ)、籥(やく)(竹の笛)等での編成で、この楽曲に合わせて八佾(はちいつ)を舞う。翕純(きゅうじゅん)皦繹(きょうえき)という響きを正確に説明できないが、美しいと感じる響きは、昔も今も、楽器が異なっても、然程(さほど)変わらないのではないだろうか。孔子は斉の国で初めて舜の音楽の「韶(しょう)」という楽曲を聞いた時、「三月(さんがつ)、肉(にく)の味(あじ)を知(し)らず(三ヶ月というもの、好きな肉の味わいを忘れるほどであった)」(述而篇)であり、「子(し)、韶(しょう)を謂(のたま)わく、美(び)を盡(つく)せり、又(また)善(ぜん)を盡(つく)せり(美を尽くし、また善を尽くしてうるわしい)」(八佾篇)と言われる。また孔子は「詩(し)に興(おこ)り、禮(れい)に立(た)ち、樂(がく)に成(な)る」(泰伯篇)とまで述べられる。「思(おもい)邪(よこしま)無し」の詩によって感情を豊かにし、「本(もと)を爲(な)す」礼によって自ら立ち、「翕純(きゅうじゅん)皦繹(きょうえき)」の音楽によって調和した人格が完成すると。
 ピアノやヴァイオリンなどの協奏曲をよく聴いている。チェロ協奏曲では、夭折したデュ・プレが、夫であるバレンボイムの指揮するフィラデルフィア管弦楽団と協演したエルガーの曲が好きである。この『チェロ協奏曲』ホ短調は、全体が重い色調であるが、一日に幾度も聴いてしまうことがある。『論語』八佾篇をおおう悲哀感と重なり、「翕純皦繹」の章句ではついこの曲を思い出す。エルガーと言えばこのCD、デュ・プレと言えばこのCDと言う程の一枚である。ところが台湾の友人からDVDを戴いて唸った。ユダヤ人のバレンボイムが、ドイツのベルリン・フィルを率い、米国人チェロ奏者のワイラースタインを迎えて、亡き妻デュ・プレの生誕地である英国オックスフォードで、エルガー『チェロ協奏曲』を演奏している映像であった。英国がEUからの離脱を選択する以前、米国がアメリカ・ファーストを叫ぶトランプ大統領を選択する以前の、二〇一〇年の録音である。ワイラースタインのチェロもさることながら、国境も民族も越えるバレンボイムの指揮に共感してしまった。お気に入りが一枚増えた。
 「天下を公と為(な)す」社会。ひとり自分の親だけを親とせず人の親にも、ひとり我が子だけを子とせず人の子にも及ぼすような社会。老いて伴侶を失い、幼くして親を喪い、老いて子を亡くした人々に、また身体の弱い人々に手を差しのべるような社会。そのような大同の社会が遠いことに、孔子がため息をつかれる姿が『礼記』礼運篇に見える。あらゆる差別のない至公無私の平和な社会が、音楽の世界では実現できるのだが。はぁあ。

 うちそろひ いと朗かに いでし音も 亂れずつゞく 樂の道かな
       (見尾勝馬『和歌論語』)

会長 目黒 泰禪


「世直し祈願萬灯行大会」外宮近くの国旗掲揚台 安岡先生漢詩の前にて

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