今月のことば (2017年8月)
祭如神在(さいじょしんざい)

祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。(仮名論語二八頁)
〔注釈〕先師は、先祖を祭るには先祖が眼の前におられるように、神を祭るには神が眼の前におられるように心をこめて祭られた。そしてよく言われた。「私は親ら祭りにあたらなければ、祭りをしたような気がしない」

 今年もまたお盆がやって来た。新盆を迎えた家族がいる。施餓鬼供養をする家がある。戦争や原爆で亡くなった身内に手を合わせる遺族、地震や津波で失った肉親に線香をあげる遺族がいる。日本では大和時代の斉明天皇三年(六五七年)以来行われている仏教の供養であるが、七十二年前の原爆とそれに続く敗戦の後は、御霊の供養に加えて、核兵器廃絶と世界の平和と安定を願うお盆ともなっている。
 お盆は、仏教の盂蘭盆、梵語ullambanaの音写で、中村元著『佛教語大辞典』に、死者が死後にさかさに吊されるような非常な苦しみを受けているのを救うために、祭儀を設けて三宝に供養すること、とある。後には特に祖先の霊を供養する法会をいうようになった。
 論語の八佾篇には、中国周王朝の祭祀儀礼が、孔子の春秋時代には既に乱れ衰微している様子が述べられている。周の祭祀についての解説がないとなかなか分かりづらい。しかし「神を祭ること神在すが如くす」は、日本人にとってごく自然に行っている為来りではないだろうか。しごく当然に神仏に向き合っている。日本人は、お社の神様、お寺の仏様、道端のお地蔵さんは勿論のこと、昇る朝日、沈みゆく夕日、富士山、雲海の峰々、巨木や巨岩にも思わず手を合わせる。日本は、『古事記』にあるように、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の親神から日本の国土や神々が生まれ、自然万物、森羅万象までも生(産)み出されたと伝承する国柄である。天照大御神をはじめとする神々も我々も同じ親神から生まれた同胞(はらから)という神観を持つ。また仏教の「草木国土悉皆成仏」という、草木や国土のように心を有しないものさえも仏性をもち、動物や植物だけでなく鉱物にも命があるという思想を持つ民族である。こうした日本人の信仰心が、異なる宗教や民族、多様な文化や価値観の存在を容認し、万物他者との共存を可能にする叡智となるのではないだろうか。アブラハムの宗教を持たない日本人の空想であろうか。
 ところで、米音楽出版社協会が今年六月十四日の年次総会で、ジョン・レノンの一九七一年の名曲「イマジン」について、妻のオノ・ヨーコを共作者として認めた。今後はレノン/オノ作となる。オノ・ヨーコは「イマジン」の前年に、全て命令形で表現した詩集『グレープフルーツ』の英語版を出している。レノン自身も「(イマジンの)歌詞もコンセプトも多くがヨーコからのもの」と語っていた。しかし、必ずしも英米人に受け入れられていなかった。認められるまでの四十数年は、西洋の思想や文化を優位に置いていた歳月でもあったか。いずれにせよ日本の快事である。その歌詞は「想像してごらん、国境なんてないんだと。そんなに難しいことじゃない。殺したり死んだりする理由もなく、宗教さえもない。想像してごらん、すべての人々が平和な暮らしを送っていると。…僕を空想家だと思うかも知れない。だけど、僕ひとりじゃないはずさ」。。

 父母も 神もいますと 祭る身の 
  祭らざる日は いみじくかなし

 (見尾勝馬『和歌論語』)

会長 目黒 泰禪


本年度、世直し祈願萬灯行大会にて

Copyright:(C) 2017 Rongo-Fukyukai. All Rights Reserved.