今月のことば (2017年4月)
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。
(子曰わく、默して之を識し、學びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我に有らんや/述而第七、仮名論語八〇頁)
〔注釈〕先師が言われた。「黙々として学び得たことを深く心に記し、あくことなく学びに学び、うむことなく人をおしえに誨える。その他に私に何があろうか」

 「不厭不倦」は、孔子の生き方を端的に表しており、正に孔子の枕詞ともいえる。「学びて厭わず」は、何とか我々凡人でも心がけ次第でやってやれないことはないし、現にそのような人を見る。昨今のシニアスクールやシルバー大学、生涯学習塾が盛況なのもそれを表している。殊のほか定年した団塊世代の知識欲は旺盛であるという。ただ、男性料理教室も含めてという笑えはしない落ちもついている。
 然しながら「人を誨えて倦まず」は、なかなか凡人には出来ない。『論語』には「おしえる」という言葉が「教」の漢字で七回、そして「誨」の漢字で五回出てくる。特に「人を誨えて倦まず」は、述而篇の第二章目(八〇頁)と三十三章目(九五頁)に重ねて出ており、何れも孔子の生きる姿勢として記されている。
 白川静の『字統』によると、「教」の旧字は に作り、爻と子と攴とに従う。爻は屋上に千木のある建物の象形。攴(木の枝でものを撃つことをいう)は長老たちの教権を示す、とある。これが一般的によく使われる学校教育の「教」である。講堂や教室に子弟を集めて教鞭をとる形の「おしえる」である。
 もう一方の「誨」は同じく『字統』によると、『説文解字』(漢・許慎)に「曉し ふるなり」という、とある。所謂、人の暗さ—悔(心の暗さ)・晦(暗さ)—を言葉でとり除き諭そうと努力する「おしえる」である。孔子の「人をおしえて倦まず」は「誨」であり、ここには極めて大切な意味がある。弟子一人ひとりと目を合わせて対峙する「おしえる」である。その弟子の資質や理解度、進捗度を推し量って、孔子が諭し導くのである。広い教室や講堂での授業とは違う。ましてやマンモス予備校の衛星放送授業や今流行のタブレット端末、スマートフォンでの授業とはおよそ次元が異なる。孔子と弟子とが感応道交する誨えである。
三月四日、故伊與田覺学監の百箇日法要が東福寺霊源院にて営まれた。伊與田先生もまた「不厭不倦」の生涯であられた。『無求備斎論語集成』という論語百四十七種、九百七十二巻、三百八冊をも収めた全集がある。どの巻を繙いても、先生が読まれた跡がある。私が今から読み始めたのでは、到底生きている間に読み終えることはできない。まねのできない「学びて厭わず」である。
 また伊與田先生は日本創造教育研究所の社長塾で十三年間毎月ご講義された。亡くなられる三週間前の十一月五日、講義の打合せを兼ねて見舞われた田舞徳太郎代表に、『論語』の「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」を病床で説かれていたとご息女の惠子さんから伺った。正に「人を誨えて倦まず」である。奇しくも先生の告別式は、社長塾当日の十一月二十九日であった。
   朝夕 默して覺え 學びつゝ たゆまず誨ふる 人たふとしや
   (見尾勝馬『和歌論語』)

論語普及会副会長 目黒 泰禪

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