今月のことば (2016年9月)
子曰わく、苟くも仁に志せば、惡むこと無きなり。
(里仁第四)
子曰、苟志於仁矣、無悪也。
(里仁第四・仮名論語三八頁)
 
〔注釈〕かりそめにも仁に志したならば、人を嫌ったり、人を拒んだりすることはない。

論語普及会副会長 目黒泰禪

 この章句は「苟に仁に志せば、惡無きなり」と読み下すのが、一般的である。真に仁を志したならば、過ちを犯すことがあっても、悪事をはたらくことはない、と言う解釈である。魏の何晏や梁の皇侃、南宋の朱熹、江戸中期の荻生徂徠も、悪の字を善悪の悪「アク」と読み、あしきこと、わるいことの意味としている。仏教や他の宗教観からしても、悪い事をしない、と読む方が説き易い。
 しかし清末の劉宝楠は、ここの悪と言う字を好悪の悪「オ(旧ヲ)」と読み、にくむこと、きらうことの意味であるとした。慧眼である。漢字は、意味によって読み(字音)が違うことがある。例えば楽と言う字は、音楽やかなでる意味では「ガク」と読み、たのし
むという意味では「ラク」と読む。このむ意味では「ゴウ」である。それと同じ類で、今年百一歳の伊與田覺先生の解釈は、にくむである。私も、「苟くも仁に志せば、惡むこと無きなり」の読み下し方が、きわめて孔子らしい言葉であると思っている。憎む心をもたないというのは、悪い事をしないということよりも、難しいからである。人間誰しも、好き嫌いの感情を持ってしまう。道元禅師が言われた「花は哀惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」(『正法眼蔵』現成公案)である。花も草も、ただ散り、ただ生きてい
る。好悪は人間の勝手な感情である。
 嫌いという感情は、ややもすれば差別感情へと繋がる。始めは、何となく違うという違和感、どこか反りが合わないという不快感である。それが嫌悪感となり憎悪となり、恐怖心へと変わり、排斥、迫害へとモンスターのように膨れ上がる。日本人は、森羅万象を畏
敬し、神を尊び、仏を敬うという信仰をもったことによって、知らず知らずのうちに多様性を受容する素地が育まれた。自然環境が湿潤な東アジアの民族は、日本人も含め、異なる価値観の存在に対して、寛容な民族ではないかと思っている。ところが現在の世界の潮流は、逆に向かっている。異文化・異教徒・異民族(人種)に対して、非寛容になり、嫌悪の感情を持つようになった。過激派はイスラム教徒の若者を、この感情で巧みに誘い、テロへと向かわせる。英国がEU離脱を決定したのも、この感情に押されて、EUの基本理念「移動の自由」を制限したいがためである。欧州各国では、流れ込む難民への不安や嫌悪に付け入るかたちで、またぞろ民族主義が頭を擡げてきている。米国では、この嫌悪感を煽ることによって、トランプ氏が共和党の正式な大統領候補に指名された。移民国家の米国さえもである。
 孔子の生きた時代よりも、人類は退化しているのだろうか。理性による「志仁無悪」から、感情の「志仁無悪」へと深く分け入らねば、嫌悪の連鎖に果てはない。

人おもふ こころをもたば なんぞ皆
     人をいとはん 人をこばまん

論語普及会副会長 目黒泰禪

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