今月のことば (2016年2月) |
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子曰わく、古者言を之れ出さざるは、躬の逮ばざるを恥ずればなり。
(里仁第四)
子日、古者言之不出、恥躬之不逮也。(里仁第四・仮名論語四五頁) |
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〔注釈〕昔の人が軽々しくことばを発しなかったのは、それが実行を伴なわないことを恥じたからである。
論語の中に出てくる弟子たちで孔先生から言動をたしなめられるのは、世間一般から見れば雄弁家と見られ、物識りと見られ、頭の良い人切れる人と見られる人たちである。例えば宰我・子貢・子路などであり、それに対しいつも尊敬の念を込めて誉められるのは、寡黙で慎重で、どっちかといえば、世間から存在を軽視無視されがちな性格の弟子たち、例えば顔回や子賤や冉雍などである。顔回などは、彼が孔子に先だって亡くなった時、孔子は“噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり”とまで言って嘆き悲しんだ。その顔回の生存中の生きざまたるや“私は顔回と向き合っている時、一日中私の話に聞き入るだけで、私見を差し挿むことがない。その様子はまるで愚か者か”と思われるほど無反応なのであるが、どっこい私の言ったことはちゃんと日常生活の中に実行されており、それどころか、その生活態度は却って私の方がはっと気付かされ教えられることが多い?とまで賞賛されている。又“私はみだりに人をそしったり賞めたりしない、もし賞める時は、その人の日常生活の実践状況をしっかり確かめた上でのことだ?と述べている。もっと端的には〝巧言令色鮮なし仁”とまで言い切っている。人と人の意志を疎通するには、言語は欠かせないが、その言語に誠が欠ける場合、人を、社会を、いや世界をも誤らせかねない。西郷南洲などは“人と語らず、天と語る”とまで言っている。
上もなき君が誠は山百合の
下向く花となりて物言ふ
田竹鄰
論語普及会会長 村下 好伴 |
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